「家康ピンチ」18大坂冬の陣・夏の陣①

 <関ケ原戦後処理>慶長5年(1600)「関ケ原の戦い」に勝利した家康は、豊臣政権を差配する地位を取り戻した。家康を除く三大老、前田利家はすでに死亡していたため、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝及び、生き残った三奉行はいずれも西軍に与し戦っていた為、敗軍の将であった。彼らは豊臣政権の中枢から外され、構成員は家康1人となっていた。従って家康1人が豊臣公儀の意思決定を独占できる状況になったかのように見えたが、実際には豊臣政権を否定する事はできなかった。秀忠の徳川正規軍が関ケ原に遅参したことにより、今回の戦いの勝利は、豊臣系の大名の力によるものが多かった。この豊臣系大名たちのなかには、家康に政権を取らせるよりも、三成憎しの感情で家康の思惑にのったまでであり、三成が排除された今、従来通り政権は秀頼のものであると認識している者も多かった。秀頼淀君母子はこの戦いでは蚊帳の外であった。従って、関ケ原での勝因を考えると、彼らに対する論功行賞は厚くなった。福島正則には毛利氏の旧領安芸広島、池田輝政には播磨姫路、浅野幸長には紀伊和歌山などを与え、彼らや秀頼母子の反発を招かないように事を運んだ。全ての大名を臣従させ、征夷大将軍として認めさせる必要があった。家康はこうした政治的配慮から、また、豊臣恩顧の大名たちへの配慮もあって、秀頼母子をどのように、殺さずに表舞台から降そうかと考えていた。しかし母子はそう簡単には動いてくれなかった。政治的バランス感覚が欠けていた淀君がついていては、到底無理な話であった。一方、70歳を超えていた家康本人は、自分の寿命に対する不安から、大坂城の母子の決着に執念を燃やし始めた。

 話は少し遡のぼるが、文禄4年(1595)7月、秀次が高野山で切腹以来空席であった関白職は、慶長5年12月九条兼孝に任じられた。関白職は豊臣家から元の摂関家に戻った訳である。また、太閤職に就いていた秀吉も弟秀長の死後、横暴さと認知症が先行、三成らの策略にのり、秀長と共に豊臣政権を内側から支え、平衡感覚を保持していた千利休を、難癖をつけて切腹に追い込んだ。利休(宗易)は天正3年(1575)信長の茶頭になっていた。茶頭になったのは秀吉が茶の湯を許される前年の事で、茶を介しての信長との関係においては、利休は秀吉よりも先輩に当たった。人間にもよるがその人間が頂点に達すると、今まで自分に利益をもたらしてくれていた人間を阻害するようになる。江戸時代になって5代綱吉が老中堀田正俊を人を介して謀殺した例がそれである。政治、私生活に介入してくる人間を疎んじてくるためである。秀吉が死に後継者、セカンドオピニオンを欠いた豊臣政権は、脆さを露呈し始めた。秀頼の権力が相対的に徐々に低下し、それに加えて豊臣家の権力を支えてきた有力大名たちが年老いて亡くなっていった。慶長16年(1612)には加藤清正が、18年には池田輝政、浅野幸長、19年には前田利家が没した。残るのは福島正則ぐらいになっていた。こうした大名たちの死は、家康をより有利な立場としていった。こうして、環境を整え豊臣包囲網を構築していった家康は、秀頼母子に牙を向け始めた。

 <二重公儀制>関ケ原の戦い後の政治体制はある程度の時期までは、豊臣家の存在が認められていた。しかし、慶長10年(1605)秀忠が父家康の跡を継ぎ2代征夷大将軍に就任すると、徳川公儀は徐々に優越的な地位を占めるようになる。関ヶ原以降、家康は秀頼を他の大名たちと同じように、地方の一大名として配下に納めようとした。家康が示した和睦条件は、①淀君を江戸へ人質として送ること、➁秀頼が大坂から他の国に移ること ③大坂城にいる浪人たちを城外に追い出すことなどであった。戦いを継続しても徳川政権や各大名たち、民衆の負担は増えるばかりであると家康は考えた。豊臣家がいずれの指示に従えば、無用な争いは避けようとしたが、秀頼母子はいずれの三案とも拒絶した。これを確認した家康は、豊臣家をこのまま放置すれば、臣従させた各大名たちに示しがつかず、徳川政権の存続が危ぶまれると感じた。家康は豊臣家を存続させるという当初のシナリオを捨て、滅亡させる以外に徳川政権の持続的継続はないと考えた。徳川政権の確立の過程において、淀君の妄想によって妥協性を示さない豊臣家は、時代の過去に流されていった。

 大坂冬の陣、夏の陣は、昔の地位にこだわり叛旗をあげた一大名と徳川政権・公儀との戦いではなく、徳川幕府の将来性や自己の子孫の存続に不安を抱いた家康が、自己の生命と脳細胞の残りを計算し、その危険分子である秀頼母子を排除するために強引に仕掛けた戦いであった。放置しておけば徳川政権の存続はあり得ないと考えた。臣従した大名たちを豊臣政権の打倒に参加させる事によって、徳川政権への忠誠心を試し、一気により堅固な徳川体制の確立を目指した。従って大坂冬の陣の早めの講和は、自分の年齢を計算に入れ総構えを埋立て城を裸にして、一気に大坂城の陥落を意図した結果である。大坂の陣に参加した大名たちのなかにもそうした迷い不安があり、真田家が父子、兄弟で敵味方に別れたように、また福島家、細川家などでも当主以外の者たちが大坂城に入っていた。負けが決まっていた大坂城ではなく、まだ勝算があった豊臣家にも夢を託し、客観的に冷静に見れば、名を残し自家の存続を賭けて二股をかけたのである。豊臣方はそこへピンポイントの狙いをつけ、家康狙撃を狙ったのが大坂冬の陣・夏の陣である。

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