17それぞれの関ケ原 ③それぞれの清算

 慶長5年(1600)9月15日、わずか1日で主力部隊不在のまま、東軍がからくも勝利した。論功行賞には、領地が増える「加増」領地の増減がない「安堵」領地が減る「減封」領地を没収される「改易(除封)」などがある。西軍について改易となった大名は、備前美作57万4千石の宇喜多秀家をはじめ、石田三成、小西行長など88家、その総石高は438万3600石、毛利、佐竹、上杉、秋田など減封大名が失った領地は232万9500石、豊臣蔵入地の削減分を合わせて敗者の総石高は約780万石にのぼる。当時の全国の検地高は1850万石余、関ケ原の戦いで、36.3%が没収され空白地帯となった。しかし、秀忠率いる徳川主力部隊が戦場に遅参したため、この過半数にあたる425万石を、勝利に貢献した秀吉恩顧の大名たちに、配分しなければならなかった。家康はこうした莫大な領地を単純に分け与えることなく、併せて諸大名の大移動を行った。徳川の一族、譜代大名たちを全国主要な位置に配置、関ケ原で先鋒を務めた恩賞として、4男忠吉に尾張52万石、井伊直政に彦根18万石を与え、要衝の睨みとした。反面、力を持つ外様大名たちを、江戸、京都、大坂から遠ざけ、なお且つ、幕政への関与も遠ざけた。これが復帰するのは幕末、幕藩体制が崩れかけた時代であった。家康は論功行賞や戦後処理が一段落した11月、秀忠が自他共に認める関ケ原遅参の総括をした。井伊直政、榊原康政、本多忠勝、大久保忠隣、平岩親吉らを呼び、三公達(秀康、秀忠、忠吉)のうち、いずれを時期将軍にすべきかを問うている。協議の末、秀忠は孝心が深く、文武兼備の長所がある という意見が取り入れられ家康の承諾を得た。これにより徳川260余年の世襲政治が確立した。慶長8年(1603)2月家康、征夷大将軍に補任、3月、二条城に入り御陽成天皇に将軍拝賀の礼を行った。この滞在中に任官を祝うため、諸大名、公家たちが次々と訪問、豊臣に代わる徳川公儀に誕生となった。江戸幕府の成立である。2年後の慶長10年4月、将軍職を秀忠に譲位、徳川氏が将軍として政権を世襲することを天下に知らしめた。これを契機に家康は更に一歩進め、二代秀忠を将軍職就任祝いのため上洛させた。この上洛は将軍家の力を鼓舞するために、花を飾りたてたような行列に仕立てたため、伏見城には大坂などからも多くの見物客が集まった。秀忠の行列が大坂城の淀君、秀頼や西国の豊臣系の大名たちを威圧するには十分であった。これ以降諸大名たちは秀頼に伺候することを控え始めた。敏感に時代の流れを悟ったのである。

 9月27日家康は大坂城に入り、豊臣公儀の政務執行を担う五大老の筆頭として、君側の奸を取り除いたという名目で、淀君、秀頼母子に戦勝報告をした。「秀頼様恩為」と始められた関ケ原合戦であったが、合戦以前の豊臣家の蔵入地(直轄領)は220万石といわれ、摂津などの他、山城、大和、伊勢、尾張、近江、九州の豊後、筑前などを領有、この他に佐渡、岩見、生野などの主要鉱山も蔵入地としていた。これらは慶長3年時点での全国の検地高1850万石余のうち約12%を占めていた。これらを現在の金額に換算すると約100億円程(100万石の大名で約40億程度の年収とされる)これらの豊臣家の蔵入地は没収され、摂津、河内、和泉の三カ国73万9688石に減封され、秀頼様恩為と戦った三成は死に、主家に大きな損害を与えたが、秀頼は大坂城で無傷で残り豊臣家は存続した。家康は旧豊臣家の蔵入地を管理する大名を移封、もしくは「国奉行」を置くことで、固有の所有大名を不明とし、徳川家の直轄地、我が物扱いとした。江戸幕府は正に秀吉の遺産の上で260余年続くことになる。しかし、余命の少ない家康は、徳川家未来永劫の政権を築くため、当初のシナリオ通リ豊臣政権の抹殺を狙った。

 西軍の盟主に担ぎ上げられた中国地方7ヶ国の太守毛利輝元は、我が領土は安堵されると合点し、合戦後の9月24日大坂城西の丸を退去、木津の毛利屋敷に戻った。しかし、10月10日家康は、中国地方の西端、周防、長門の2ヶ国36万9千石だけを安堵した。この反動は幕末になって爆発する。越前敦賀6万石の大谷吉継は、小早川秀秋の寝返りによって戦死、北ノ庄、越前大野など西軍についた大名の領地が没収され、併せて67万石が家康次男秀康に加増され福井藩の藩祖となった。近江佐和山城20万石石田三成、肥後宇土20万石小西行長、伊予の内6万石安国寺恵瓊らは、伊吹山で捕らえられ斬首、九州へ逃亡した備前美作宇喜多秀家57万石の領地は没収された。会津120万石上杉景勝は、出羽米沢30万石に減封され、逆に上杉を封じ込めた恩賞として、出羽山形24万石最上義光は57万石に加増、陸奥大崎58万石伊達政宗も60万5千石に加増された。「三成討つべし」として、東海道筋に領地を持っていた大名たちも論功行賞の対象となった。尾張清洲24万石福島正則は安芸備後49万8200石、三河吉田15万石池田輝政は播磨姫路52万石、甲斐府中21万5千石浅野幸長は紀州和歌山39万5千石、小山評定で城明け渡しを真っ先に提言、関が原では南宮山の毛利勢に備えていた遠江掛川15万9千石の山内一豊は、長曾我部元親の旧領地土佐一国20万2千石の太守となった。一豊の一言が家康を刺激した結果である。他に東海道筋では遠江浜松12万石堀尾忠氏は出雲松江24万石に、三河岡崎10万石田中吉政は、筑後久留米と筑後柳川32万5千石に加増された。

 関ケ原合戦の主戦場は美濃関ヶ原であったが、この戦いに関連して全国でも多くの戦いが繰り広げられた。<東の関ケ原合戦>では、永禄13年(1570)25歳で家督を相続した山形藩最上義光は、天正18年(1590)秀吉による天下統一を契機に20万石の豊臣方の大名となっていた。しかし、娘生駒姫が秀次に輿入れした文禄4年(1595)、秀次は高野山で自刃させられ、その子、妻妾らが三条河原で処刑されてしまう。生駒姫はその時上洛の途中であったが、秀吉に嫌疑をかけられ同罪とみなされ処刑された。以来、義光は秀吉に対し面従腹背の態度をとり、家康派の大名として活動し始めることになる。慶長5年、直江状により上杉討伐が決定、家康は義光に南部氏、秋田氏ら北奥羽の大名の指揮権を与えた。7月25日、小山から岐阜城に向かった家康をみて、上杉軍は最上領に侵攻してきたが、義光はよく持ちこたえ、9月15日西軍が破れたことにより、上杉軍は撤退していった。戦後、最上軍が2万を超える上杉軍を出羽の地に引き留めて東軍を勝利に導いた事により、義光は出羽20万石から57万石に加増された。また<西の関ケ原合戦>においては、肥後北半国19万5千石の加藤清正は小西行長の旧領土を併せ肥後一国52万石に、丹後宮津11万石の細川忠興は豊前34万国に、豊前中津18万石黒田長政は筑前一国52万石、筑前35万7千石小早川秀秋は、宇喜多秀家の旧領備前美作57万石4千石にそれぞれ加増された。論功行賞を巡って戦後2年を経ても、最後まで難航を極めたのが薩摩、大隅、日向を領有していた島津家であった。関ケ原においては、島津豊久が先鋒に配置され、島津義弘の本隊は石田勢や宇喜多勢の後に布陣する「二番備え」であった。負けを確信した島津軍は中央突破を敢行、島津は奔った。9月22日、堺から義弘は七つ半頃(am5:00頃)御座船にのり、大坂湾河口で妻たちを収容した船と、西宮の津で出合い再会を喜びあい、10月3日、薩摩に無事帰港した。一方、家康にとっても島津家に断固たる処置を取るよりも、いち早く徳川の秩序を回復することが肝要であった。実に合戦から2年4ヶ月になって最後の決着をみた。西軍として合戦に参加しながらも、減封も改易もされず江戸時代を南国で生き延び、力を蓄え人材を育て、外国船が襲来する幕末になると、徳川幕府打倒の急先鋒として、長州と共に明治維新を誘導していった。



 

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