17それぞれの関ヶ原 ②天下分け目の決戦

 慶長5年(1600)7月19日、東軍の主力を担った参男秀忠は江戸を出発、宇都宮に向かい砦を普請した。宇都宮城には上杉方の備えとして次男秀康が入る。秀忠は8月24日、中山道を経て信州上田を目指した。率いる軍勢は、酒井忠次、本多忠政、榊原康政など有力家臣3万8千、東軍の主力部隊であった。しかし、信濃国上田城を守る真田昌幸、信繁(幸村)父子に翻弄され、9月2日から10日まで、上田に足留めとなる。更に真田軍の追撃を警戒して迂回路をとったため、時間的ロスは大きくなるばかりであった。実戦経験のない秀忠は功を焦るばかりであった。塩尻からの木曽路に入ると、開戦間近の知らせが届き秀忠は益々焦り、昼夜分かたずの強行進軍をして関ケ原にむかったが、9月15日の「天下分け目の決戦」には間に合わなかった。秀忠が合戦が終わり勝利したという知らせを受けたのは、9月17日中山道妻籠宿であった。戦い後、秀忠は大津に着陣していた家康に面会を求めるが拒否されるが、諸将のとりなしで父家康の怒りが解かれ、やっと世継ぎとしての立場を回復した。この代償として、戦後の論功行賞においては、東軍に加担した豊臣恩顧の大名たち、加藤清正、福島正則、黒田長政らに大規模な領地配分へとつながっていった。このことは家康、秀忠、家光など歴代将軍が行った言いがかりともいえるお家断絶、取り潰し、領地没収などを行い「関ケ原の負の代償」を回復、己の自領・天領を遮二無二増やしていくことになる。

 一方家康は、9月1日江戸を出立、9日岡崎城、11日には清洲城に入って1日間進軍を止めた。風邪をひいたと云うのが正式表明であるが、東山道(中山道)から関ケ原に向かって徳川軍の精鋭主力部隊を率いている秀忠が、どうやら真田との戦いに巻き込まれ、遅れているとの情報を聞き、どうやら時間稼ぎの為、調整したものと思われる。しかし、「戦い」というものには「勢い」というものがある。勢いにのっている今、下手に引き伸ばしては勝てる戦も勝てなくなる。そう考えた家康はそのまま岐阜城へ入り、9月14日大垣城近くの赤坂に着陣、主力部隊と合流しないままの「天下分け目の合戦」をむかえようとしていた。ここでまた、家康はピンチを迎える。当初のシナリオであれば、秀忠の主力部隊と合流、「天下分け目の戦い」に臨む手筈であった筈が、主力部隊不在のまま、その半数以下の軍隊で戦わなければならなかった。しかも未だ豊臣家の臣下である西国大名たちの混成軍の集まりが、家康率いる部隊の内訳であった。「天下分け目の戦い」をこの者たちと戦うのか、勝てるであろうか、大丈夫であろうか、心淋しい思いがした。こういう時に長男、岡崎三郎四郎信康がいてくれたら、楽な戦いができたであろうにとホゾを噛んだ。

 一方西軍三成らは、毛利輝元を盟主として大坂城にむかえ、大老の宇喜多秀家も西軍に加担、三奉行も三成方に寝返った。当初は三成、大谷吉継らの徒党の軍勢であったものが、秀頼を戴き輝元を盟主に据えることによって、彼らこそが豊臣公儀を背負うことになった。反対に会津征伐に出向いていた家康は、大義名分を次第に失い、家康の個人的な戦いとみなされていった。西軍方は、輝元、秀家、さらに三奉行の連署をもって、豊臣政権に対する家康の暴虐や非道を「内府違いの条々」にまとめ、諸大名に配布した。この文章を読む限り、正義は西軍にあった。また、これらに並行して三成らは、小早川秀秋には関白職を、真田昌幸には美濃・甲斐二国の加増を約束した。こうした方々の空手形の結果、西国大名の大半は西軍方に味方、その動員力は10万近くまで膨らんできた。こうした状況を分析した家康は、これから先の進軍をためらってしまった。家康に従い三成憎しの思いで戦うことになっている豊臣恩顧の大名たちの意向をもう1度、確認する必要性が生じてきた。また、上杉景勝や佐竹義宣など東北大名たちの防衛も固めなければならなかった。家康に従っていた豊臣恩顧の大名たちは、徳川の天下取りに加担している訳ではなかった。この戦いはあくまでも豊臣政権内での、主導権争い派閥争いであり、この戦いの相手は石田三成であり、秀頼は蚊帳の外であった。従ってこの戦いが終われば引き続き豊臣政権が我が国を治めるものだと信じていた。その約束がいつの間にか入れ替わり、まさかの内に徳川政権が誕生し、自分たちがその体制下に組み込まれていくとは想像だにしていなかった。この戦い時点では、家康は自分たちにとって三成を倒すための単なるリーダーであり、立場はパートナーシップであった。家康はこれらの事を認識、彼らの下手な疑いを招く事を恐れ、諸将たちに多量の書欄を送った。特に直情的性格が強い正則に対しては多くの書面をしたためた。「あくまでも秀頼様御為」と。江戸時代になり福島家改易の後、広島に入った浅野家がこれを発見、播州赤穂浅野家にわたり、5代綱吉の意向を汲んだ柳沢吉保が吉良に伝え「返せ」「そのようなものはない」と刃傷事件の発端になったといわれる。

 開戦間近の西軍の布陣は、美濃に三成らの本隊3万8千、伊勢に毛利勢3万余、越前から近江にかけては約1万5千であった。西軍は田辺城(細川幽斎・忠興)や大津城(京極高次)攻めに約1万5千を動員した。高次はこの大軍を引きつけたまま開戦当日の15日に開城した事で、十分、西軍の戦力を削ぐことに成功した。西軍はこの人数を欠いたまま大垣城に入ったが、東軍が三成の佐和山城を落として大坂へ向かうという、家康が発した偽情報に乗せられ、大垣城を出て関ケ原で迎え討つことになった。野戦を得意とする家康の情報作戦に、まんまと引っ掛かった訳である。三成、島津、小西行長などは中山道や北国街道を抑えながら東に展開、大谷吉継はその右に布陣、松尾山には小早川秀秋、南宮山には毛利、吉川、長曾我部らが布陣した。対する東軍は、家康旗本隊3万が桃配山に本陣を置いた。右翼は黒田長政、細川忠興など、左翼は福島正則、藤堂高虎などが布陣、南宮山の毛利などの抑えには、池田輝政、浅野幸長、山内一豊らが布陣した。徳川軍の主力部隊は、中央部に布陣した家康4男松平忠吉と井伊直政隊程度で、大半は豊臣恩顧の大名たちであった。秀忠が遅参している現状では、彼らに依存して戦わざるを得なかった。

 9月15日早朝関ケ原は朝霧が深く立ち込め白濁していた。東軍約7万余、西軍約8万余が辰の刻(am8:00頃)関ケ原に対峙したが、それよりも半刻程前、東軍の先鋒を約束されていた福島隊の脇を通り過ぎ、忠吉と直政が抜け駆けして宇喜多隊に攻めかけたのが戦端となった。数の上では西軍優位であったが、昼近くまで双方一進一退であった。混戦の中、寝返りを約束していた小早川秀秋が、家康の督促の鉄砲の音に怯え、松尾山を下り大谷隊に突入した事をきっかけに、西軍は総崩れとなっていった。しかし、南宮山に陣を構えていた西軍の毛利輝元などは遂に動かなかった。これは、家康に内通していた吉川広家が軍を掌握していたため、動かすことが出来なかったからだとされる。今回の戦いの参加に消極的であり、それまで関ケ原の陣中で中立を保持していた島津隊は、西軍の負けを確認、関ケ原の中央突破にでた。島津義弘隊2千から3千は、家康の本陣をかすめて南東方向へ駆け抜けていった。その島津勢を見て、忠吉と直政、本多忠勝は追撃した。島津軍の殿の兵たちは要所、要所になると、馬から下りて地面に腹這いになって追撃してくる敵兵を鉄砲で狙撃して、義弘の逃亡時間を稼いだ。双方必死の追撃戦であった。この追撃戦で直政は腹部を狙撃され落馬、1年半後この傷がもとで敗血症になり死亡してしまう。一方、島津勢も義弘甥豊久が殿軍を務めて討死、31歳であった。島津軍が戦場を脱した頃は、従う者たちは50人程になってしまった。彼らは東海道水口から鈴鹿峠を越え、関、伊賀上野、信楽から居駒山麓平野を走り、住吉から堺の湊へ出て海路をたどり薩摩へ帰還した。家康本能寺の変の逃亡コース「伊賀越え」のほぼ北側に当たる。かくして天下分け目の戦い・関ケ原の戦いは、僅か1日で東軍が辛くも勝利を納めた。




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