「家康ピンチ」17それぞれの関ケ原①
<江戸瓦版>250話記念 シリーズ家康ピンチ 「それぞれの関ケ原」①小山会議
中山道関ケ原は、日本のほぼ中央に位置し、右折すると北国脇街道、左折すると伊勢街道、直進すれば近江路に通じ、古来より関ケ原は街道の分岐点として重要な拠点であった。中山道第五十八宿関ケ原宿は、美濃十六宿の中でも最も賑わった宿場であった。慶長5年9月15日=1600年10月21日、家康率いる東軍7~10万、三成が束ねた西軍8万(それぞれ諸説あり)の両軍が戦い、日本各地で繰り広げられた所謂「天下分け目の戦い=関ケ原の戦い」の主戦場となったのがここ岐阜県関ケ原町である。この戦いにより徳川氏は、豊臣政権に対し優位性を持っていくことになる訳であるが、飛鳥時代672年にも、「天下分け目の戦い」があった。天智天皇の子・大友皇子と天皇の弟・大海皇子が皇位継承を巡って戦った「壬申の乱」である。勝利した大海皇子は天武天皇として即位、乱の翌年、大和国々の治安を願ってこの地に関所を置いた。これが古代日本三大関所のひとつ「不破の関」である。北は伊吹山に、南は鈴鹿山地に連なり、西国から尾張、美濃といった東国へ抜けるには、この関を通らねばならなかった。不破の関は、延暦8年(789)には取り壊され、不破の関所跡となる。「関ケ原」という地名は、関所があった原っぱの意味であり、関東、関西といった呼び方も、関ケ原を境として生まれた言葉であるという。
天正19年(1591)名補佐役であった弟の秀長が死ぬと、秀吉は老害ともいえる数々の、人民や武士たちに苦渋を飲ませるような、愚かな行為を重ねていった。奥向きの相談役の千利休に言いがかりをつけ切腹に追い込み、甥の秀次を切腹させ、その子や妻妾たちを処刑した。最晩年になると、明国の王になることを妄想、我が国に留まらず、朝鮮、明国の多くの民衆、武士団に犠牲を払わせた。こうした秀吉の残忍な納得性のない行為は、豊臣家臣団を分断させていった。この隙間を狙って家康は、豊臣政権の中枢にのぼり上がっていった。こうした状況を踏まえた豊臣政権は「御掟」「御掟追加」などを制定、体制の立て直しを図った。こうして政権を支えていたのが、五大老、五奉行制である。この体制が整えられたのが慶長3年(1598)のことで、秀吉はその年の8月18日、伏見城で63歳で死亡した。秀吉は自分の死を悟ると、前の秀次事件以上に頻繁にに起証文が交わされた。大抵は秀頼への孝行、豊臣政権の法度の遜守、大名間の徒党の禁止であった。その死の前後から家康と五奉行、とりわけ三成との不和が表面化していった。慶長4年正月、秀頼は傳役の前田利家と伏見城から大坂城へ移った。三成は家康襲撃企てを2度もたてたが、いずれも果たせなかった。この時期、家康は各大名家との婚姻関係に力を入れていた。これが問題視されていたが、秀吉亡き後拘束力はなく、家康のなすがままであった。同年3月、五大老のひとり、秀頼傳役前田利家が没すると、政権内の対立は更に激化していった。加藤清正、福島正則、黒田長政らの武断派が、文禄・慶長の役における論功行賞を巡って、三成などの奉行職と対立、三成を亡き者にしようと襲撃したが未遂に終わった。三成はその責任を取らされ、奉行職退任、佐和山城に蟄居した。こうして、家康は豊臣政権を担うべく、五大老の筆頭として、伏見城西の丸に入り、我が政権の樹立を探った。
慶長5年(1600)4月、家康は会津に構える上杉景勝に対し、諸々の言動は豊臣公儀に対する反発であるとして、大坂への召喚命令を出した。景勝は秀吉死の直前に会津120万石を与えられ、越後から転封され、領国経営に専念していた。そこへ旧越後藩に入った堀秀治から、秀勝に謀叛の疑いがあると知らせてきたためである。これは、会津に転封する際に、旧領越後で、その年の年貢米を徴収してきていたため、堀家ではその年の年貢米の徴収はゼロになってしまたための、腹いせ的な言いがかりであった。家康への返書が4月14日付けの天下に知れた直江兼続の「直江状」である。16条からなる上坂を拒否した痛快状である。これを見た家康は、6月に会津征伐を決断、この直江状の内容、存在あるなしに関わらず、家康は自分の命令に従わない景勝を、豊臣公儀に対する謀叛とみなし、6月18日、約6万5千の大軍を率いて会津征伐に向かった。豊臣の公儀性制を強調したのである。家康と共に東下した徳川家の武将たちは、井伊直政、本多忠勝、榊原康政など20名、豊臣系の武将には、福島正則(尾張清洲)山内一豊(遠江掛川)池田輝政(三河吉田)、伊達政宗(陸奥仙台)など、攻めるべく敵の近くに領国を有する大名たちであった。他に家康を支持、行動を共にした大名たちに、黒田長政(豊前中津)、細川忠興(丹後宮津)、藤堂高虎(伊予板島)らがいた。ここまでは家康単独の強行ではなく、秀頼から正式な許可を得た豊臣公儀の行動だったといわれるが、次第に公儀制は崩れ、家康個別の行動に埋没していく。
7月24日下野国小山(現、東北本線、水戸線、両毛線乗換駅)在陣中、三成、大谷吉継の挙兵を知った家康は、翌25日参陣している各将を集め、各々の去就を問うた。所謂「小山会議」である。その場で真っ先に発言したの福島正則である。正則は三成憎しの急先鋒、「朝鮮の役」では三成のため秀吉から不当な評価をされたことで、個人的感情が入っていたこともあるが、この一言で会議の大勢が傾いた。「我に於いては かかる時にのぞみ妻子にひかれ 武士の道を踏み違うことあるべからず。内府の恩為身命を投げ打ちて 御味方仕るべし」この発言、家康と長政が事前協議、前日、長政が正則に根回ししたとされている。続いて山内一豊が自己の居城掛川城の提供を申し出た。この2人の発言で大勢は決定、東軍は小山を反転、岐阜城へ向かった。正則は戦場で先鋒隊としても活躍、戦後、清洲から芸備(広島、岡山県)二国49万5千石、一豊はこの一言で掛川から土佐一国(高知県)20万石の国持大名となった。しかし、小山会議はなかったとする説もある。家康にとって三成征伐は既成方針であった。会津征伐は最初から、三成の挙兵を誘い出すためと、各大名たちの去就を確認するための方便であったとされる。当初から家康ブレーンとの意思決定により、シナリオ通リ三成を打倒、豊臣公儀の力を弱め、徳川政権樹立の道を進めば良かったのである。8月初めまで小山にとどまっていた家康は、5日に江戸に戻り岐阜に向かった。この騒動の間、三成は自軍への参加を促すために、大坂の屋敷に残してきた各大名の妻子を人質に求めた。逃げ遅れた細川ガラシャは家来に胸を突かせ自害、また、家康に対抗した景勝は、戦後会津120万石から、出羽米沢30万石に減封されてた。
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