「家康ピンチ」16秀吉老害②

 安土桃山時代の宣教師ジョアン ロドリゲスは、日本人は誰にも理解されない、表裏のある心の持ち主であるという。日本人は三つの心をもっており、ひとつは口先だけの心、ひとつは友人にだけ示す胸の内、もうひとつは心の奥底に秘め、誰にも明かさない心の内であるという。秀吉の本心は、同時代の人間にも憶測できないものであったいう。

 天正17年(1589)5月、淀君が鶴松を産む。このことは三成など近江出身の官僚たちの発言力を強めていった、信長は室町幕府の守護領国制といった、地方分権性を否定、自己の下に権力すべてを集中させる中央政権制を志向、秀吉もこの体制を継続、特に鶴松が生まれてからは、全ての富と権力を我が息子に与えようとした。三成はその忠実な代行者であった。それによって秀吉に重く用いられたが、反面、家康や利家などの大名たちは、この体制を嫌った。中央集権が進めば、自領の独立性が奪われるからである。一方、秀吉や三成は、朝鮮出兵=唐入により戦時体制を作り、それによって中央集権化を促進しようとした。しかし、出兵する大名たちはこれにより無用な出資がかさみ、秀吉らの思うままの命令に従う事になり、自国への負担は計り知れないものになる。故に、各大名たちは秀長や利休に中止を求めたが、秀長の死、利休が切腹を強いられた事により、このガードが外された。秀吉らは中央集権制度と朝鮮出兵を強行していった。

 天正19年(1596)正月秀長の死、8月秀吉の第一子鶴丸が逝った。この二つが秀吉の明への出陣を促したといえる。12月、秀吉は甥の豊臣秀次に関白職を譲り、関白の政庁である聚楽第も秀次に与え、彼を後継者として迎えた。自分は太閤として引き続き院政を握り、外征に力を入れていった。秀次は三好吉慶と秀吉の三つ年上の姉、ともの間の子である。譜代の家来たちがいない秀吉の甥として、近江八幡城の大名として独立していった。文禄2年(1593)になると淀君が第ニ子、秀頼を産んだ。秀次の悲劇の始まりである。文禄4年、秀次は謀叛の疑いをかけられ、高野山に追放され、自刃に追い込まれた。彼の子女、妻妾まで30余人が、8月2日、三条河原で斬首された。その原因として ①秀次謀叛説、うつ病説 ②三成、淀君讒言説 ③秀頼誕生による秀次無用説が挙げられている。老害が始まった秀吉のとるのはやはり③であろうか。三条河原で斬首された、妻妾たちの中に、山形城主最上義光の娘「おいま」がいた。器量が良かったおいまは、秀次の求めにより文禄4年7月に京へ上った。そうしてやっと京へ着いた頃、この事件が起きた。1度も対面をしていなかったおいまも、妾の1人をして三条河原に引き立てられた。淀君の再三の助命嘆願に秀吉はそれを認めたが、その知らせの馬が届く1町当たり前で、おいまは帰らぬ人となってしまった。秀吉の秀次憎しの感情は人間にだけでなく、住んでいた聚楽第にまで向けられた。天正15年(1587)に二条城の北に、政庁、邸宅、城郭として完成され、御陽成天皇も2度ほど御幸し、「長生不老の楽を聚むる」として名付けられた建物は、秀次切腹とともに取り壊された。完成してからわずか8年の命であった。豊臣政権を象徴しているかのような短命な幻の建築物であった。家臣団にも大きな亀裂を生んだ。

 この悲劇を生んだもうひとつの原因は、豊臣秀頼の誕生である。秀吉の糟糠の妻、北の政所ねねは、秀吉との長い間の生活から,夫には子だねがないのではないかと感じていた。戦国時代の武たちには子だねがない人たちが多かったとされる。それは何故か?大航海時代、コロンブスがアメリカ大陸を発見、そこから感染した唐瘡(梅毒)がヨーロッパにひろがり、間もなく日本にも伝染、蔓延した。戦国時代、戦いに続く戦いで、武将たちは、生殖機能を低下させる梅毒に感染する確率は多かった。秀吉もその例外ではなかった。ねねは秀頼は夫の子ではないのではないかと疑問をもった。夫のDNAを受け継いでいない近江の子を、尾張のわたしが育てる正当性がない。当時の慣例として、秀頼の公式の母親はねねであるとしても、個人的感情がそれを許さず、秀頼を豊臣政権の後継者として、認める方向に向いていかなかった。豊臣政権は我々夫婦一代だけでいい。ねねは徐々に脱豊臣政権を取り始めていた。一方、秀吉に比べ実務的な知識の吸収にも努めた家康は、そうした知識は持ち合わせていた。秀吉が高貴な娘を好み、誰も秀吉の子を産んだという実績もなく、反面不特定多数の人間をも好んだのにたいし、家康はその者たちとの接触を避け、身元の確かな者たちを自分の側室とした。自分の家来の娘とか家中の未亡人とか、少なくとも自分の眼の届く範囲での選択となった。結果的に後家好みとなったが、確実に徳川政権の継続に向けて努力していった。

 秀吉老害の最たるもの、豊臣政権崩壊の大きな要因となるのが、天正20年(1592)~文禄2年(1593)に休戦した「文禄の役」と、慶長2年(1597)~3年まで、秀吉の死によって撤退した「慶長の役」である。韓国朝鮮史によれば「壬申・丁酉倭乱」、中国史によれば「万歴朝鮮史」と呼ぶ。天正19年、秀吉は唐入りを表明、関白を秀次にゆずって太閤として外政に専念した。その理由として ①秀吉の功名心により、新たな領土の獲得を海外の求めた ②国内の動乱を外に転じた動乱外転説 ③貿易の復興や拡大を目指した ④東アジアの新秩序説 などが挙げられているが、いずれにしても、わが国や朝鮮、明の国々へ多大な損害をもたらし、国力を衰退させた。両役での日本軍の病死、餓死、落伍、病傷者併せて10万人余、朝鮮、明国併せての犠牲者は併せて100万人余、この数字は朝鮮総人口の約20%、日本に連行された捕虜、奴隷は2万~10万以上に及んだ。7年間に及ぶ戦いで豊臣政権はその命を自ら縮めていった。強いて利点と言えば、連れてこられた朝鮮の陶工たちが、日本に窯業の技術をもたらした事である。

江戸純情派「チーム江戸」

ようこそ 江戸純情派「チーム江戸」へ。

0コメント

  • 1000 / 1000