「家康ピンチ」16秀吉老害①
「応仁の乱」から戦国時代という、階級の無差別化によって、信長の後に出てきた秀吉は幸運であった。信長は力によって、中世のあらゆる価値体系を滅ばしていったが,秀吉は信長に比べ出来るだけ、外交戦によって、懐柔によって、敵を征服していった。赤穂浪士の切腹を進言した、元禄の学者荻生徂徠は「人生最大の楽しみは、豆を噛んで古今の英雄たちを罵倒することだ」と云う。現代人にとっても、信長、秀吉、家康を偏見、独断で比較するのは面白い。
天正11年(1583)4月、「賤ケ嶽の戦い」で柴田勝家を破った秀吉は、北関東の諸大名たちと北条氏との和睦を進めていた。しかしまだ、秀吉は信長亡き後の、織田家中から抜け出せない状況にいた。家康・信雄連合軍との「小牧長久手の戦い」後の、天正13年6月、長曾我部元親を討って四国平定、7月関白となって五奉行を設置すると、秀吉は織田家中を超える権力者として現れてくる。強力なライバル家康を通して、関東の「無事」を求めてきた。「惣無事」とは、総じて無事、つまり、全てにおいて平穏、無難であるとの意味である。天正14年4月、その「無事」実現のため、関東の諸大名に直接「境界」を確定する旨を伝えた。豊臣政権の「惣無事令」によって、国や郡などの境界決定のための、各大名間の個別交戦権を剥奪、豊臣政権の裁判権がそれに代わるというものである。併せて「刀狩令」「海賊停止令」などを発布、秀吉は「惣無事」の安定と継続によって、全国統一を目指していった。天正16年4月、後陽成天皇を聚楽第に招き、諸大名に忠誠を誓わせた秀吉は、同18年(1590)7月、小田原北条氏を滅亡させ、続いて奥州を平定、家康を関東に移封、秀吉は全国統一をほぼ完成していった。この時秀吉53歳であった。
天下を獲ってから、慶長3年(1598)8月秀吉が死亡するまで足掛け9年、秀吉の行跡は芳しくない。芳しくないどころか、人間的にかなりのズレが生じてきていた。この症状は天正19年(1591)大和大納言豊臣秀長の死によって、益々加速されていった。尾張中村で百姓をしていた秀吉の弟小一郎は、23歳の頃、譜代家臣を持たない豊臣政権の一角として武士となった。基本姿勢は「仁と和」内々の儀は宗易(千利休)に、公事の儀は宰相(秀長)に任せよ、とまで言われた秀長は、暴走する秀吉の唯一の抑止力、諫言役であり、豊臣政権における調整役であった。秀吉は右腕、秀長の死により自制心を失い。自己を剥き出しにしていった。アルコール依存症とビタミンB1不足からくる「ウエルニッケ症候群」により、意識、運動、眼球障害が発症、この後遺症が悪化し健忘症、認知症へと進み、現代医学用語でいう「コルサコフ症候群」に至っていった。この症状=老害が政治権力にも現れ、秀吉が死ぬまで多くの人々が犠牲となり、我が国、隣国も疲弊していった。①方広寺や聚楽第など巨大建築物の建造により国益を消耗、財政の悪化を招き、②千利休や秀次に対する無益な死により、政権内に亀裂を生じさせ、③子飼いの清正や正則らと、事務官僚三成らとの調整不和による政権基盤の脆弱化 ④豊臣政権崩壊に導いた唐入り=文禄・慶長の役などがあげられる。権力を握っている人間が、抑制する者がいなく、勝手気ままに生きると、如何に国や民衆に危害を及ぼすか、現代でも充分に通ずる。
天正14年(1586)5月、秀吉は松永久秀によって、焼き払われた東大寺大仏に代わる大仏殿を造立することを発願、京東山に方広寺建立した。文献によれば、大仏は6丈3尺≒19m、東大寺大仏14,7mを上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていた。また、この寺の鐘は東大寺、知恩院(三井寺)などと併せて日本三大名鐘のひとつと呼ばれていた。後年この鐘銘「国家安康」「君臣豊楽」に家康は難癖をつけ、慶長19年(1614)「大坂冬の陣・夏の陣」を起こすきっかけを作り、豊臣家崩壊を狙った。徳川政権の安定存続を狙った家康の狡猾な手口のひとつである。天正19年1月22日秀長が大和郡山で死亡すると、三成らは大徳寺の三門に千利休の木像が安置されていることを問題視した。これは、利休に置いたのではなく、利休が三門造営の費用を出してくれた御礼に、大徳寺側が安置したものであるが、三成らは利休に責任があると追求した。利休この時70歳。この難癖に精神的疲れ、寝込んでしまう程であったという。2月23日、堺に下って謹慎を命じられた。この時は、細川忠興と古田織部が淀の船着場まで見送りに来てくれた。3月25日には、京一条戻橋で、利休の木像が磔にかけられた。木像が磔にかけられるというのはおかしな話である。豊臣政権の歪みがこの頃から露呈していった。3月28日、聚楽第の屋敷に戻された利休は切腹を命じられる。表向きの理由は、①大徳寺の三門に自身の木像を置いたこと ②茶道具を不当に高く売りつけたというもの ③娘を側室にという秀吉の要求を拒否した事などである。この日は朝から大雨が降り、雷が鳴りアラレが降るといった大荒れの天気であったという。千利休の死は政権内の亀裂を生じさせた。利休七哲のひとり、蒲生氏郷は、利休の死後、娘婿小庵を自領会津若松に匿った。現在でもその茶室は鶴ヶ城郭にあり、参観者に茶を振る舞っている。
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