「家康ピンチ」15北条氏滅亡・入府
⑤北条氏滅亡 天正17年(1589)12月10日、家康は秀吉と小田原攻めの軍議を行い、東海地域の諸大名たちと同じく、本役(100石につき5人の軍役)の負担、凡そ3万の軍勢を率いて先鋒を務めることになった。翌18年2月10日、家康は織田信雄や蒲生氏郷らと共に、東海道を東上して行った。3月1日になると、秀吉が自ら3万2千の軍勢を率いて京都を出立、三保の松原や田子の浦を見物しながら、ゆったりとした行軍を続けた。裏を返せば、余裕ある態度をみせることによって、朝廷や周囲の大名たちに、自己の実力を見せつけたかったのである。豊臣勢は総勢約22万、対する北条勢は約8万、氏政、氏直父子を始め、一族重臣たちが小田原城に籠城、それと併行して領国内の山中城(三島)、韮山城(伊豆)、松井田城(安中)、鉢形城(寄居)、八王子城(武蔵)などの要衝、支城を固め、豊臣方の侵攻に備えた。4月になると秀吉は小田原城を完全に包囲、城を見下ろす笠懸山に「一夜城」で知られる石垣山城を築いた。城の全域が穴太(あのう)式野面積みの石垣で構築されている、東国では最初の石垣城であったとされる。穴太衆とは、信玄が金山や洞穴を掘削する際に使った石工衆で、現在でも比叡山延暦寺東麓、琵琶湖西岸叡山坂本の町でその見事な遺跡を見ることができる。一方、海上では九鬼、毛利、長曾我部らの水軍が、軍勢20万余を賄う兵糧米を沼津に搬入し、相模湾を封鎖した。
こうした中で「城主氏直は家康の婿なれば 自然城と言合せ之有」と、家康が北条方と内通して、謀叛を起こすのではないかという噂が広がり始めた。包囲2ヶ月、決着のつかない豊臣軍の苛立ちの中で、この風評が消えては上がっていた。奥羽の伊達政宗が帰順、関東各地の諸城が次々と攻略され、氏照の居城八王子城が陥落すると、7月5日、当主の氏直が城から出て降伏、開城、小田原戦役は終焉を迎えた。北条早雲(伊勢新九郎)以来、五代に渡った北条家は滅亡した。氏直は家康の婿のため高野山に追放、氏政、氏照は自決した。北条氏滅亡により、戦国時代は実質的に終了、豊臣政権による天下統一が実現した。
⑥家康入府 天正18年7月、小田原北条氏を滅ぼした秀吉は、本人には6月頃伝えていた転封、家康を三河、駿府、遠江、信濃、甲斐の領国から、北条氏の旧領を基本とする武蔵、相模、上総、下総、上野、下野への転封=関東移封を公表した。命じられた居城は、京都や三河から遠く離れた関東の寒村、江戸であった。この家康の関東移封は、関東、奥両国「惣無事」政策の総仕上げ=仕置きの一環として行われた。秀吉は江戸が水運、陸運の要衝であったため、家康をここに移して、これから始まる関東、東北の動きに対応させようとした。家康は秀吉にとってあくまでも外様であり、次の攻撃対象の急先鋒であり、また、家康そのものが敵に変わる要因も充分にあった。危険分子を大坂から遠くに置いておきたかったのである。秀吉の思惑通り、秀吉の死後、家康は徹底的に豊臣政権を崩壊させ、大坂城を炎上させていくことになる。
この戦い以前、室町幕府や信長など、上位権力者による各々の支配地からの移封命令は無かったため、徳川家にとって、この措置は相当な衝撃であり、大きな反発を呼んだ。家康も秀吉に対して激しい怒りを感じた。三河は先祖伝来の土地であり、人質時代から自立を成し遂げ、支配を回復した土地であった。他の領土も実力で自領とした土地であった。だが、家康の怒りもこれまでであった。「小牧・長久手の戦い」で同盟を結んだ織田信雄は、尾張にこだわり家康領国への移封を拒んだため、秀吉から配流されるという措置をとられた。ここで、家康が同じように拒絶すれば信雄と同じ運命となる。さすれば家を失い、家来たちを路頭に迷わせることになる。ここで天下取りの野望を放棄する訳にはいかない。家康の脳細胞がピンチを迎え、即冷静に戻り、すばやく計算を始めた。この措置は徳川家にとって損か得か?家康は氏直に嫁がせていた娘督姫から、関東の情報を多く入手していた。江戸という地は現在は単なる寒村であるが、湊となる入り江が深く入り込み、そこには大きな河川が何本も流れ込み、背後には武蔵野台地が広がっている。小田原、鎌倉より耕作や物流に恵まれた、政権を握るには絶好の地盤であると認識していた。
秀吉の正式発表を待たず、岡崎城には吉川広家が、清洲城には小早川隆景が既に在番、事実上城を取られていた。家康の裏切り防止と関東移封を促すためである。しっかりと城を抑えられていた。秀吉も表向きの言動とは裏腹に家康以上に狡猾であった。現代でも勤務先からの転勤、移転命令は本人や家族の都合に関係なく、一方的に急に発令される。断れば解雇若しくは一生寒流におかれる。そうしたハンディを乗り越え、家康は故郷三河に戻る事なく、小田原から天正18年「八朔=陰暦では8月の初めての日」、自分たちの覚悟を示すために、陣太鼓を叩き、白装束でかため、府中から甲州街道を使って江戸入りをした。家康転封後の東海地域には、駿河一国に中村一氏、掛川城に山内一豊、浜松城に堀尾吉春、吉田城には池田輝政が配置された。昨日までの適地に乗り込んだ家康、240万石余といわれる勢力と豊富な人材をバックに、老いる秀吉政権下で着実に天下取りを目指していく。
0コメント