7 永代橋/大川口の渡し/佃の渡し/月島の渡し/勝鬨の渡し/そして江戸の海
「永代橋」
永代という名は、永代寺略縁起によれば、古くはこの地は「七渡の浦」と呼ばれていたが、天平勝宝年間(七四九~七五九)、武蔵守に任ぜられた藤原某が霊夢のお告げにより、七渡を改め「永代島」と名付けたとする伝説による。
江戸期の「永代橋」の場所には、「大渡し」が、西は北新堀町地先(日本橋川、豊海橋北詰)と深川佐賀町を結んでいた。この渡しに代わって、元禄十一年(一六九八)(九年説も有)、大川筋(隅田川)第四番目の橋として、新大橋から約一㌔下流の、大渡しの地点に木橋が創架され、永代橋と名付けられた。
この名の由来は、深川不動寄りに永代寺があった為とか、五代綱吉の誕生を記念して、生母桂昌院が息子の永代を祈願して、発意したためともいわれているが、綱吉説は江戸年間に否定されている。
明暦大火後に両国橋が架橋され、川向こうの土地が都市化されていった様に、元禄の永代橋の架橋により、深川には木場が造成され、八幡宮や永代寺に門前町が形成、料理茶屋や岡場所、辰巳の芸伎たちも加わって、信仰+行楽の方程式が成立していった。
江戸名所図会には、永代橋を「長さおよそ百十間(百九十八m)、巾三間一尺五寸、永代島に架するゆえに名とす。諸国への廻船輻湊の要津たる故に、橋上至って高し」とあり、東南には房総の海が拡がり、御城の西南には富士の山がそびえ、北には筑波が望めた。
橋脚の高さは、澪筋(航路)から廻船帆柱を全部たたまなくても済む様に、大潮の潮位から約一丈余あったとされるからおおよそ十m、現在の三階建ての建物に匹敵する高さであった。橋本体は、新大橋より小ぶりであったが、橋の反りが高いため、太鼓橋的な構造をしていた。当初は橋の維持管理の経費を幕府が負担していたが、幕府の財政事情が苦しくなると、新大橋同様、町人負担となっていった。
永代橋の架橋と並行して、八月二日、上野東叡山寛永寺の根本中堂が造営され完成、九月六日、中堂に掛ける「勅額(天皇の直筆の書)」を棒持した行列が、江戸市中を巡り寛永寺に向かっていた。
四っ時(午前十時頃)、南鍋町(銀座五丁目)から出た火事は、上野、谷中、千住辺りまでを燃え尽くし「鍋町の火事」と呼れたが、世間では、俗に「勅額火事」とも「中堂火事」とも記録した。永代橋、根本中堂ともに、綱吉の永代に結びついたイベント的な建築であったとされ、「生類憐みの令」が発布中の火事でもあり、江戸市民は、諸々にかけて大きな迷惑をこうむった。
享保年間(一七一六~三五)、この当時の永代橋の状態は「永代橋、新大橋惣体大破ニテ、橋杭ハ水際ヨリクサリ、其外、諸道具共朽損、往来危ク、相見エ申候」という有様(江戸弁では体駄落)で、その結果として新大橋を改架、永代橋は廃橋にするという決定になった。しかし、深川地区の地主全員が反対、通行料をとってその維持に充てる事で、民間に払い下げが許可され、以後町人による維持、管理の橋となり、幕府=町奉行は直接関与しなくなった。更に、享和二年(一八〇二)大型台風によって崩落、この時もお金が足りず充分な普請が出来なかった。綱吉永代を願って架けられた永代橋は、完成後百余年でボロボロになってしまった。この原因のひとつとして、根本中堂と橋とを請け負った儲け分が、二万四千両だとされ、この儲け分の素材が、粗材であったためだとされている。
ここで改めてざっくりと、永代橋のメンテナンスの歴史を辿ってみると、元禄十一年(一六九八)創架、享保四年(一七一九)深川町々へ下府され町管理となる。同十一年から七年間、ひとり当り二文の橋銭を徴収、これは、一日当たりの通行人を三千数百人と見込むと、年間四百両の収入となる。同十三年、大洪水が発生、千住大橋などの復旧工事開始、両国、新大橋の二橋だけで出費約五千五百両。翌十四年、永代橋も架け替え工事着手。杭は東西両側を三本立てとし、廻船や流木によって痛みが激しい澪通り(中央部分)は、杭四本立てとしている。
元文元年(一七三六)橋渡し銭を二十年間、一人一文とする。(武士は無料)これを見込んで、宝暦十年(一七六〇)仮橋工事開始、明和二年(一七六三)には本橋完成したが、翌翌年の四年、橋が流失、修復出来ず、橋掛は解任。天明元年(一七八一)新しい橋は再び流失、この時点で、以後十年間の橋銭を二文徴収となる。
享和二年(一八〇二 )大型台風により崩落。文化四年(一八〇九)、こうした状況の下で発生したのが、「落橋」事件である。死者数百人、橋請負人処罰、翌五年、幕府の費用によって架け替え。同六年、十組問屋(菱垣廻船仲間)の冥加金で、橋の修復が行われたが、文政二年(一八一九)年になって、八年続いたその引請を停止てしまった。資金の後盾を失った永代橋は「御入用橋」となる。その後も架け替え工事は、文政六年(一八二三)、弘化二年(一八四五)、安政五年(一八五八)と維新まで続く。
これら大川筋の修復工事は年間平均で、千二百余両とされ、その対象となっていた橋は、日本橋など右岸地区で三十八橋、左岸の本所、深川地区で四十八橋、本所の割下水に架かる小橋が四十橋,合計百二十六橋を数えた。しかし、この数字の中には、千住大橋や両国橋など、長大な橋は含まれていなかった。因みに、深川地区の橋に限って云えば、享保十一年(一七一一)以前の橋修復費用は、平均五百二十四両が使用されていたが、以降は百数十両と五分の一に激減していった。
永代橋には大きな事件が二つ起きている。ひとつは元禄十五年(一七〇二)旧十二月十五日未明、本所の吉良を討ち取った赤穂浪士の面々は、両国橋を渡らずそのまま大川沿いの道を左折、小名木川に架かる深川萬年橋を渡って、乳熊屋で甘酒を馳走になり、意気揚々として雪の永代橋を渡る。昭和の時代劇「忠臣蔵雪の巻」ラストシーンである。
渡り切った四十七士たちは、鉄砲州の元浅野家上屋敷に立ち寄り、浅野家菩提寺泉岳寺を目指した。安穏とした体制を貪っていた、幕府の体制を根底から揺るがし、江戸市民の喝さいを浴びた事件であった。
もうひとつの事件は、「橋多き中に永代怨みられ」と云われた、文化四年(一八〇七)旧八月十九日、深川八幡宮の例大祭二日、永代橋は深川よりの橋の部分が崩落、この為四百四十人余(一説七百人余とも千五百人余ともいわれる)の、多大な犠牲者を出した事件が発生した。
この原因として考えられることは、祭りの前日まで悪天候が続き、日本橋方面からの参拝、見物客がしびれをきらして西詰に待機、一斉に橋に渡ったためである。加えて、寸前で橋の下を一橋斉敦の舟が通過のため、通行が一時制限され、この為更に待機の人々が増加、橋の上は一気に重量がかさみ、耐えきれず崩壊した。
この事件には、みっつの偶然がかさなっている。ひとつは雨のため待機者が増えため、ひとつはわざわざこの時間に、橋の下を通過した大名の舟がいたこと、もうひとつは今なら当然とるべき、通行制限をしなかった事である。
しかし、偶然ではない事柄が一番事件を大きくした。それは橋のメンテナンスを怠ったことである。創架から百十六年余、途中補修があったにせよ、元々初期段階で躯体に粗材が使われていた事である。当初危うい物は、後どう補修しても危ういといわれる。補修が利かないのである。この事がこの大事件に結びついてしまった。
「永代とかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼あすは葬礼」 大田(蜀山人)南畝
「深川の底は八幡地獄にて、落ちて永代浮かぶ瀬もなし」 と揶揄された。
これをあの世で聞いた綱吉母子は、何とコメントを出したであろうか。元禄文化で咲いた仇花が、何年にも及ぶ、流失、崩壊によってその花は萎み散っていった。現代でも後をたたない粗悪な材料、手抜き工事で事故を起こした会見は一同礼、本心からユーザー、消費者に真剣に詫びている姿には見られない。この責任を何処に如何に、転嫁しようか、早く巧く逃げようとの姿勢が見え隠れしている。約二百十六年余の事件となんら進歩してない事が、現在も繰り返し行なわれている。
また、大型プロジェクトになると、訳の解らぬ人間が介在、その人間の報酬を支払う為にその予算は膨らむ、膨らんだ物を押し付けられるのは、何も知らない上手く押しつけられた納税者、ローンを組んだ購入者である。いつの時代にも、政権と癒着、利権を掴んだ人間に左右される。「悪い奴ほどよく眠る」 世界がそこにある。
幕末、永代橋東詰には、幕府御手先組の組屋敷がおかれ、その東側には、信濃国松代藩真田家の下屋敷(永代一丁目)があった。松代藩士佐久間象山は、嘉永四年(一八五一)木挽町に、海防などを教える「五月塾」を開き、維新をリードした海舟や吉田松陰、橋元左内などが集まり学んだ。
江戸期より約二百m下流の日本橋川河口右岸に、明治三十年、木橋から道路橋としては日本初の鉄橋へ、架け替えられた永代橋は、震災により大破、帝都の門として、且つ震災復興第一号として、大正十五年完成、橋長さ百八十四、七m、巾二十二m、勝鬨橋、清州橋とともに国の重文となっている。令和になって、橋の西詰から三年に一度の連合渡御の神輿が、一基ずつ橋を超え八幡宮へむかう。その活気は江戸の頃と変わらないでいる。
「大川口の渡し」
本来の隅田川の河口にあった渡しで、霊岸島(新川)と、深川永代を結んでいた渡しである。永代のすぐ上流が「佐賀町」で、江戸期は、日本橋の物流拠点の機能を果たした町である。肥前国佐賀の湊に、似ていたためこの名がある。永代の隣「黒江町」は、「大日本沿海興地全図」を作成した伊能忠敬が、下総佐原から江戸に出て、この町に住居を構え、天文学や測量学を学んでいた町である。
この町を少し下ると、播磨国姫路藩榊原家の下屋敷があった「越中島」である。この土地は波浪による浸蝕が激しかった為、榊原家は土地を幕府に返上、幕府はここを土捨て場として造成、のちに屋敷地や町屋となっている。
この先流れは隅田川のデルタ地帯、石川島の突端(パリ広場)にぶつかる。右は「中央大橋」が架かる本流、佃、月島、勝鬨と進み東京湾へ注ぎ、左へ舵をとれば、明治二十五年埋立てられた、月島地区のライフラインとして、明治三十六年創架、「明治丸」が係留されている、越中島と佃島を渡す「相生橋」を潜り、晴海の先で本流とぶつかる支川となる。
「佃の渡し」
正保元年(一六四四)、公称百間四方の佃島が、鉄砲洲沖の寄州に築土され、それ迄江戸府内に寄宿していた、摂津の国佃村の漁民たち、三十五世帯が転居してきた。その翌年、漁民たちは、不定期的に自分達の舟を利用して、対岸の江戸へ通う様になる。これが「佃の渡し」の原型である。
島に住む漁民たちの他に、潮干狩りや藤の花、月を愛でに、江戸府内からも渡しを使って島を訪れた。江戸期武士は無料の渡し賃であった。明治九年片道大人五厘、十六年に対岸鉄砲洲川河口の湊町を結ぶ定期便となる。
大正十五年になると管理が都に移管され、機関船が曳航する渡し舟となり、昭和二年渡し賃は無料となる。昭和三十九年、東京オリンピックの年に「佃大橋(約二百二十m)」架橋、正保二年から三百十九年続いた、隅田川最後の渡しは、八月二十七日幕を閉じる。
渡船を降り左へ参道を進むと、故郷佃村から勧請した「佃住吉神社」、住吉小橋を渡れば、石川島と佃島の間の湿地帯を、中州の土で埋立てた、「石川島人足寄場」があった。
「雪降れば佃は古き江戸の町 千鳥鳴くよな気笛の音は
今年限りの渡し船 俺とお前は今日限り」
佃をこよなく愛した新劇作家、北條秀司の詩の碑が、渡し場跡の傍にある。
「月島の渡し/勝鬨の渡し」
明治二十五年、東京湾一号地月島が造成された。石川島にあった石川島重工業(現IHI)の関連企業が月島地区に進出、そこに働く従業員の足として誕生したのが「月島の渡し(明石町~月島)」である。手漕ぎで私設の有料渡船であった。明治三十四年、東京市に移管、下流の「勝鬨の渡し」ともに、昭和十五年「勝鬨橋」の架橋によってその役目を終えている。
渡し、橋の名は「勝鬨」、地名は読みやすく「勝どき」と記す。明治三十八年、「日露戦争旅順陥落」を祝って、京橋区民によって「波除稲荷」裏と、対岸勝どきを結んだ渡しが「勝鬨の渡し」である。月島の工場地帯への発展とともに、労働者の重要な交通手段となり、二十四時間体制で航行していた。
日中戦争の最中の昭和十五年、国はオリンピック、万博及び東京府庁の移転を立案、それを踏まえて「勝鬨橋」が創架される。翌十六年には連合国相手に「太平洋戦争(日本軍側は大東亜戦争という)」に突入、いずれの計画も幻に終わった。
勝鬨橋の構造は、橋桁を高くするよりコストが安い、世界でも珍しい中央に可動支間をもつ「中央部跳開型可動橋」である。両翼が七十度の角度で、七十秒、「ハ」の字型に開く。これにより橋の通行は二十分間停止した。
この理由は、上流に石川島重工業や三井、三菱、住友など財閥系の倉庫群が、河口付近の右岸に建ち並んでいたため、大型船の航行に配慮して、このように設計されたためである。昭和四十五年十一月二十九日、水上から陸上への物流手段の変遷の中で、開閉の役目を終え、今は静かに翼を休めている。
「江戸の海」
遠く十ニ万年前,房総半島は島だった。この頃の内海が「江戸の海(東京湾)」であり、武蔵の国と下総の国の間は、広大な湿地帯であり、通行はままならぬ土地であった。このため大和武尊の東征も、律令時代の東海道(古代官道)も、相模の国三浦半島から走水を渡り、安房の国へ渡っていった。
かって海鹿やイルカや、鯨までも生息した江戸湾(江戸っ子達は江戸の海と呼んだ)、東京湾は、将軍様のお膝元の「江戸の海」、「江戸前の海」であった。三浦浄心が書く(慶長見聞録)には「相模、安房、上総、下総、武蔵の五ヶ国の中に大いなる入り海あり」としている。
文政四年(一八二一)伊能忠敬が完成した「大日本沿海興地全図」には、江戸湾に関する記載は見られないが、この頃には江戸湾の形状が意識され始め、「江戸前海」「江戸内海」の言葉が見られるようになる。
その頃の江戸の人口、百二十から三十万人、世界最大数の人間の胃袋を満たした江戸の海は、多品種で大量の漁獲類が獲れ、単位面積当りの漁獲量も群を抜いていた。昭和三十七年、東京湾の漁獲類の水揚げは、約十五万tあったものが、水質汚濁、干潟の埋立てにより、貝類や海苔、スズキなど、漁獲量h三分の一にまで激減した。
江戸の海の沿岸は、遠浅の海が多かったため、多くの魚たちの稚魚が、そこで生息し貴重な生態系を造っていた。逆にいえば、遠浅という事は、人間の手によって埋立て易いということであった。
明治以降、沿岸や河口の埋立てが進み、これにより干潟や浅瀬が破壊され、工場地帯や住宅地に代わっていき、自然のサイクルは破壊されていった。現在、東京湾に残る干潟は、野島海岸、三番瀬、富津干潟など七ヶ所でしかない。
近年では多少水の浄化も進み、隅田川にも魚が戻りつつあり、お台場では土砂を入れ、人工の干潟を造成する試みもみられ、浅蜊などが生息し始めているという。海(水辺)の再生は、埋立ての三倍の経費と時間を要するという。
「江戸の湊 陽のあるうちに出る舟入る舟 幾千艘とも数知らず
舟路の行方はいざしらず 波のお花の末の見え候こそ 江戸にて候と」
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