6 大川端/新大橋/御船蔵/中州の渡し/清洲橋/大渡し


「大川端」

竹町(駒形)の渡しから下流を大川と呼び、物語や歌舞伎などでも多く登場してくる、その右岸を特に「大川端」と呼んだ。両国の東詰は俗に「向両国」といわれ、西詰から下流は新柳河岸、元柳河岸、間部河岸が続き、横山町と浅草御門の間は吉川町(現在東日本橋二丁目)、花火の玉屋、丸餅を焼いて餡をつけた、一個五文の幾世餅の古松屋、紅、白粉の小間物屋の五十嵐、水飴の大黒屋などの店が軒を並べていた。

少し下流にいくと薬研堀と米沢町があり、両国橋から浅草橋南東にかけ、「矢ノ御蔵(米蔵)」があり、大川から鍵の手に屈曲した「薬研掘」が巡っていた。元禄十一年(一六九八)、御蔵が火事のため、翌年築地小田原町に移転、明和八年(一七七一)掘割はL字の部分を埋め立てられ、薬研堀町が起立、明治三十六年、残りの部分も埋め立てられ、千代田小学校(日本橋中)となった。「薬研堀」については第二章十九節を参照。

「新大橋」

家康入府から百三年目の元禄六年(一六九三)、両国橋に次いで府内では二番目、隅田川では三番目の「新大橋(深川大橋)」が創架された。この場所は、東側は深川元町(現常盤一、芭蕉記念館南側)、西側は浜町水戸殿上ヶ地(現浜町三、浜町第二ポンプ所辺り)であった処である。

長さは京間で百間(約百九十七m)、巾三間七寸(約六、一二m)、東湊町の白子屋伊右衛門が、晴天八十日の請負期間であったが、実際には五十二日で完工、十ニ月七日に渡りぞめ、幕府は正式名を「新大橋」とした。この名称の由来は「千住大橋」「両国橋(大橋)」に対しての命名である。側に住んでいた芭蕉は、新しく架けられた新大橋を

「有がたや いただいて踏む はしの雪」 と詠んでいる。

現在の橋は、江戸期の木橋より約二百m上流に、明治四十五年、鉄橋として架け替えられる際に、この場所に移転された。更に昭和五十ニ年、架け替えられた橋の長さは、百七十、九m、巾二十四m、因みに明治時代の新大橋は明治村で健在であり、新大橋、永代橋は東京都管理の橋、両国橋は国土交通省の管理である。

現在の新大橋の側には、江戸初期から明治初期まで、「安宅の渡し」が両岸を結んでいた。明治の頃の渡し賃は、一人八銭、自転車五厘、人力車一銭五厘であり、この渡しの上流、両国橋のやや下流には「一目(千歳)の渡し」があった。

江戸期この辺には、「御船蔵」が置かれていた。御船蔵とは幕府艦隊の格納庫である。現在、新大橋東詰南には「御船蔵跡の碑」があり、広重は江戸百、第十二景「大はしあたけの夕立」の名作を描いており、後期印象派のゴッホが、油絵でこれを模写している。

「御船蔵」

「安宅丸」は、寛永九年(一六三二)、家光が向井将監に命じて建造させた、軍艦形式の御座船で、家光は天下丸と命名している。長さ五十五m、排水量千五百t、四百人の水夫が、二百本のオールを交代で漕ぎ、米四千石(一万俵)積載し、将兵、軍馬を乗船させた当時最大級の軍艦であった。

因みにこの安宅丸の誕生には別の話があって、建造したのは小田原北条氏であり、その後秀吉の手に渡り、伊豆の下田に係留されていた。天下が代わり徳川氏が下田から、寛永十年(一六三三)江戸に回航させてきた。この回航の音頭をとったのが猿若勘三郎で、この時家光から、褒美として拝領したのが白い反物、この反物が後に中村座の定式幕となったとされる。

約半世紀後の、天和二年(一六八二)、五代綱吉の代になって、維持費の増大と老朽化のため解体され、「御船蔵」の間に解体部品が埋められ、安宅丸御船蔵塚が築かれた。これを担当した老中堀田正俊に、約三十八万両もの船材や金具の売却益を着服したという噂がたった。これが原因か貞享元年(一六八四)、若年寄稲葉正休によって殿中で殺傷された。

「中洲の渡し」

新大橋から清洲橋にかけての右岸は、隅田川(大川)と箱崎川の分岐地点にあたり、上流からの土砂が、溜まり易い場所であったため、「中洲」「三叉」とも呼ばれていた。また、この付近は「三つ叉別れの淵」と呼ばれ、真水と塩水の分かれ目といわれているが、通常汐が注す距離は、約十㌔前後といわれ、この辺は河口から約二㌔前後であるため、別れの淵の記載は定かではない。昭和三年竣工された「清洲橋」あたりが、明治六年、渡船を開始した「中洲(なかず)の渡し」があった場所である。

この中洲という土地は、江戸から明治にかけて、何度も出入りを繰り返している。先ず最初の登場は、安永元年(一七七二)中洲新地として、馬込勘解由の「三股出州築地」計画により、中洲の地代で伝馬制度の補填を目的、本所御船蔵前の土(一説には明和九年に起きた明和の大火の残廃)をもって、約九千坪埋立てられた。

五年後、西国明石に勝る納涼、観月の名所として、料理茶屋や水茶屋、船宿などが開店、三叉富永町として、新吉原、深川をしのぐ一大歓楽地に変貌した。中州に出没する遊女たちは、素人女が地女(プロ)を装って客をとった、為に彼女たちは「地獄」=魔性の女と呼ばれた。因みに新吉原で稀に見る美人のことも役者たちは「地獄」と呼んだ。

中州の最盛期は田沼の時代で、田沼失脚後、老中首座についた松平定信は、中州は隅田川氾濫の元凶となるとして、寛政元年(一七八九)この土地を崩し、隅田川上流の土手(三囲神社付近)や、対岸「人足寄場」の埋立に転用、中州は隅田川の川底に沈んだ。わずか十四年のバブルが終わった。因みに中州は、歌舞伎「伽羅仙台萩」の舞台でもある。二代目高尾を祀る稲荷は、少し上流の箱崎にある。

「中州今 馬鹿ものどもが 夢のあと」

二度目に世に出るのは、明治十九年になってからである。深川佐賀町、清澄町へは渡しで結ばれ料亭街として繁栄、明治二十六年には「真砂座」が開演したりして、賑わいをみせたが、立地の悪さから、大正六年築地に「築地小劇場」として移転、更に六本木の俳優座へ発展していく。昭和の高度成長期、高速道路が隅田川の景観を一変、急速に衰退していった。この辺りの事情は柳橋の料亭街と極似している。(中州は第二章二十六節を参照)

「山もありまた船もあり川もあり、数はひとふたみつまたの景」半井卜養

因みに「みつまた(三股、三派)」とは、諸説あり、両国橋から新大橋にかけて、隅田川、神田川、竪川が合流しているからとも、また、日本橋川の下流、湊橋の手前で日本橋川が箱崎川、亀島川と三股に分岐している為ともいわれる。当時は月見や夕涼みの名所であった。

「清洲橋」

大正十四年架橋を開始、この辺りの地盤は、永代橋付近と同じく軟弱な為、川に大きな筒を岩盤まで二十四m堀下げ、その中で工事を進めるというニューマッチング・ケーソン工法が使用され、昭和三年に完成している。この工法は永代橋と同じく、平成五年のレインボーブリッジにも使用されている。

橋の材質は、当時帝國海軍で研究中であった、張力に勝れた低マンガン鋼を使用、命名は架橋地点の地名、江東区清澄と中央区中州をとって「清洲橋」、ドイツライン川に架かる、ルーデンドルフ鉄道橋をモデルにしたこの橋は、下流の永代橋を男性的フォルムと見るならば、女性的な優しい曲線を描き、対照的なシルエットを描いている。

浅草からお台場へ通う水上バスに乗り、清洲橋を潜りすぐ後ろを振り返ると、吊り橋のケーブルのゆるい曲線上に、お椀の舟の一寸法師の如く、スカイツリーがおすましして立って挨拶してくれる。隅田川に架かる、一番美しい橋として人気があり、この姿は萬年橋北詰西側の、元船番所跡あたりのアングルから見るのが一番いい。

左手手前へは「深川萬年橋」を、第一橋梁とする「小名木川」が流れ込み、(小名木川」は第四章、消えた掘割番外編を参照)、清洲橋と永代橋の間には、おじゃま虫的に、箱崎町と佐賀町を結ぶ、高速と一般道が二重構造になっている「隅田川大橋」が架かっている。

この橋を潜ると、目の前に佃の高層ビル群を背景に、夜間はネイビィブルーにライトアップされた永代橋が浮かび上がってくる。右に白く浮かび上がる「中央大橋」とコラボして、ここも隅田川お勧め、ビュウスポットのひとつである。

「大渡し(深川の渡し)」は、現「隅田川大橋」の下流側にあった。寛文年間(一六六一~七二)に、江戸期の「永代橋」架橋付近を繋いでいたが、元禄十一年(一六九八)永代橋創架によって廃止された。

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