5、両国橋/両国広小路/両国川開き/回向院
「両国橋」
江戸市街の約六割強を焼き、十万余の犠牲者を出した「明暦の大火」、江戸府内から逃げてきた江戸っ子たちは、大川の岸辺で立ち止まった。渡るべき橋がない。渡るべき舟も当然の如く出払っていた。季節は正月の十八日、今でいえば真冬の最中、水に入ったらたちどころに凍え死ぬ。
当時、江戸幕府は防衛のため、上流の千住大橋以外、隅田川には橋を架けず、「渡し」で賄っていた。この政策により多くの市民が、火事における被災と同時に水死、凍死、飢えによる死となり、より被害を拡大させた。
この歴史上類をみない、都市火災を目のあたりにした江戸幕府は、これまでの自己の機関を護る体制「武断政治」から、民衆とともに共生する体制「文治政治」に大きく舵をきった。江戸城本丸の再建を中止、被災した市民に対して、炊き出しや見舞金の給符などに陣頭指揮をとったのは、三代家光の異母弟、保科正之である。
「両国橋」の創架は二説あり万治二年(一六五〇)説(仮橋)と、大火より四年後の寛文元年(一六六一)説(本橋)がる。これは「仮橋」と「本橋」を混同している為である。隅田川西岸、吉川町と本所元町の間に架けられた木橋であり、幕府は当初「大橋」と名付けた。しかし、ここを利用する江戸っ子たちは「武蔵国と下総国をつないでいるんじゃ、両国橋じゃねえのかい」と、庶民の間では両国橋で通っていた。てな次第で、元禄六年(一六九三)新大橋が架橋された際、幕府も正式に両国橋とした。
「橋杭で 国と国とを 縫い合わせ」
両国橋と正式になる以前、創架より三十年近く後の貞享三年(一六八六)において、幕府は本所、深川の都市化による人口増によって、下総国葛飾郡の一角(現在の江戸川迄)を、武蔵の国に移管、以降、武蔵と下総をつないでいた大橋は、「武蔵一国橋」となっていたというオチまでつく。それでも幕府は大橋にこだわり、下流の橋を「新大橋」と名付けていた。そののち「永代橋」「吾妻橋」が架橋され、「江戸五橋」は出来上がってゆく。
明暦四年(万治元年、一六五八)、幕府は二人の旗本に本庄(所)、両国奉行を任命、万治二年仮橋が出来、寛文元年(一六六一)に本橋が完成している。長さ約九十四間、巾四間、(徳川実記)によれば「完成は万治二年」、町触れや後年の公文書では、「寛文元年の完成」となっているが、これは仮橋と本橋の完成を、混同したためであろうとされている。現在の橋は長さ百六十四、五m、巾二十四m、国土交通省の管理で、この上を走る京葉道路は国道である。
「下見れば 及ばぬ事の多かりき 上看て渡れ 両国の橋」 蜀山人
「両国広小路」
武断政治から、文治政治へと大きく舵をきった徳川幕府は、火事や地震などの災害から市民を護るため、インフラの整備を始めた。御三家始め大名屋敷の廓外への移転、神社仏閣の郊外移転、元吉原の浅草田圃への移転など、江戸用地の有効的拡大を図った。同時に混雑回避を目的として、道幅の拡大も図り、「両国・上野・浅草広小路」がこれである。また、火事延焼を阻む目的として「火除地」も、各所に設けられた。
「両国広小路」は、両国橋西詰の火除地一帯を称した名称で、明和、安永年間(一七六四~八〇)頃から、見せ物小屋、芝居小屋、水茶屋、舟宿などの集まる盛り場となっていった。「川遊び」は明暦大火後の、万治年間(一六五八~六一)頃から始まり、寛文年間(一六六一七二)、元禄年間(一六八八~一七〇三)になると、流行に拍車がかかり、大名、旗本から町人まで、屋形船、屋根船、猪牙舟などで、川を埋めるほどの賑わいを見せた。
「河凬を 売り物にする 江戸の夏」
わけても、夏の両国橋付近は、江戸っ子の最高のレジャースポットであった。大川の船遊びと、彼女たちの気風が、深川辰巳芸者の発展を促し、一方、ライバル地元柳橋の芸妓たちは、この日はお休み、江戸っ子の気風を現わした。
「吹けよ川凬 あがれよすだれ 中の小唄の 顔みたや」
「両国川開き」
享保十八年(一七三三)八代吉宗は、前年飢饉と疫病(コレラ)で、数万人もの犠牲者が出た事から、悪疫退散のための水神祭をおこなった。水難者の供養と死者の慰霊のための、法会「川施餓鬼」である。
これに合わせて、余興として水茶屋が上げた花火は、川開きを告げる合図でもあった。吉川町辺りの上流は玉屋、横山町辺の下流は鍵屋が担当、この負担は船宿八割、料理茶屋が二割であり、このシステムは昭和三十六年の、最後の両国花火大会まで続いた。因みに玉屋は天保十四年(一八四三)、爆発騒ぎを起こし江戸所払いとなり、廃業している。
「ふ出来なは みんな鍵屋へ おっかぶせ」
太陰暦では六月は盛夏、六月を水無月というには、カンカン照りの水の少ない月を意味する。この六月の江戸は祭りの季節、神田明神、山王祭、深川八幡などと大きな祭りが開催され、江戸の粋と根性が集結した。
「嬉しさを 汗にしぼりし 祭りかな」
この暑い旧暦五月二十八日から、八月二十八日の三ヶ月行われた「両国川開き」は、両国橋を中心として、上流は綾瀬川辺りから、下流は佃島、御浜御殿辺り迄、茶屋、見せ物、寄席などの夜間営業が許され、屋形船を始め伝馬船、荷足船まで、ありとあらゆる舟がかりだされ、この間をうろうろ舟が、こまめに商いをこなし、江戸っ子たちは、蒸し暑い江戸の町を抜けだし、大川の川凬を体いっぱいに浴びた。
「この人数 船なればこそ 涼みかな」 其角
「千人が 手を欄橺や はしすずみ」
この賑わいぶりを江戸名所図会を借りて引用すれば、「両国の飛桜高閣は大江に臨み、 茶亭の床几は水辺に立て連ね、灯の光は玲朧として流れに映ず。桜船、扁舟、所せくもやひつれ、一時に水面を覆ひかくして、あたかも溢地に異ならず」となる。
両国橋の賑わい振りを、橋の改修面からみてみると、宝暦九年(一七六九)に行われた、明け六っから暮六っまでの改修時間帯における、代替の渡し船を利用した人数は、二万二百五十八人、これが本来の橋の往来であれば、倍の数字を示したであろうと想定される。両国橋の賑わいぶりが、別の側面からも想定出来る数字である。
両国川開きは、享保期(一七一六~三五)から昭和十四年(一九三九)まで、約二百年余り開催されてきたが、戦争のため一時中断に追い込まれる。戦後の昭和二十三年復活、三十六年水質悪化、交通警備問題で一時中止されていたが、五十三年、「隅田川花火大会」として再開され、今日に至っている。
「回向院」
明暦の大火を契機に架橋された「両国橋」は、当初現在の位置より約五十m下流、回向院の西門を結び、江戸からの参詣口となっていた。大火の犠牲者約十万八千人余のうち、約二万人余が無縁仏であると云う惨状であった。
当初は本所牛嶋新田に埋葬されていたが、その後、現在の両国二丁目に「回向院」の本堂と観音堂が建立され、この寺に埋葬される事になった。回向院はもともと増上寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来座像、諸宗山無縁寺と称した。
天明三年(一七八三)の浅間山の大噴火直後の熱洪水により、利根川から綾瀬川、隅田川へと流された犠牲者は、両国橋の橋脚や百本杭で留まり、やっと陸地にあげられ回向された。加えて天明大飢饉や、安政二年十月(一八五五)の大地震などの犠牲者、牢死者、刑死者など、多数の無縁仏が回向されている。著名人では国学者の加藤千蔭、戯作者の山東京伝、義賊鼠小僧次郎吉などの墓がある。
回向院は広小路に近いせいもあり、境内では諸国寺院の出開帖や、勧請相撲などが開かれ、年間を通して賑わい、江戸を代表する盛り場のひとつであった。出開帖とは、地方の有名寺院の歴史ある御仏を、人の集まる寺院を借りて公開する事で、現在デパートで開催される〇〇展と同じ類いである。江戸の頃は信濃国善光寺の出開帖が人気で、その収入は一万両を超えることもあったといわれる。因みに回向院の出開帖は、居開帖八回、出開帖百六十六回、目的は勿論、寺院の新築、維持管理費の捻出であった。
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