4 御厩の渡し/御米蔵/御竹蔵/富士見の渡し/首尾の松/百本杭
「御厩の渡し/御米蔵/御竹蔵」
「御厩(文殊、院)の渡し」は、元禄三年(一六九〇)に定められた、御厩河岸と対岸石原町を結ぶ渡しである。現在の厩橋(明治九年創架)辺り近くに、浅草鳥越神社の山を切り開いて、大川の右岸を埋め立て造られたのが、八本の舟入り堀をもつ「浅草御米蔵」である。この辺りは隅田川の、自然堤防が形成されている場所で、地盤が比較的強度であった為、舟入り堀や蔵を建てるには、絶好の土地柄であった。
明暦大火が江戸の町を、約六割強まで焼失させた原因のひとつになった、蔵を市街地よりはずし、隅田川の両岸に移転させた。浅草(蔵前)に米蔵を、対岸の本所側に「御竹蔵」、その下流には「御船蔵」を造った。結果必要とされたのが両国橋であり、これも両国橋架橋のひとつの要因となった。
「御竹蔵」は、幕府用建築資材置き場であり、御米蔵と同程度の面積を保有、四方には掘割が巡らされ、本所七不思議のひとつ「おいてけ堀」の舞台になった処である。
浅草御米蔵は、天和六年(一六二〇)、幕府が年貢米の備蓄用として、隅田川右岸に建築された。二万七千坪の敷地と六十七宇、三百五十四戸の蔵に、五十万石の米を収納、江戸経済の中心的存在であった施設である。その北側に米俵を運ぶ付属の御厩、即ち馬小屋があった。「おんまや、おんまいの渡し」とも呼ばれ、渡し賃は二文、武士は無料、舟八槽を保有し、船頭十四人、番人四人が働いていた。
この渡し、明暦の大火の犠牲者を、回向院へ運ぶ為に使われ、その後何度も、自然災害や火事による犠牲者を運び、明治五年には、渡し舟そのものも転覆するなどした為、別名「三途の渡し」とも呼ばれた。
対岸は本所石原町、この近くに柳原土手や京橋比丘尼橋へ通う、辻君が多く生活していた吉田町があった。新吉原の花魁を、最高職の遊女だとするならば、彼女たちは最下層の屋外労働者、手拭を頬被りして、巻いた御座を抱えて出没した。
「客ふたつ つぶして夜鷹 みっつ喰い」
みっつ食べたのは二八蕎麦、夜鷹たちは生活のため、低賃金の仕事を強いられていた。
「富士見の渡し/首尾の松」
現在の蔵前橋の下流側(瓦町~横網町)に、震災迄運行されていた渡しである。現在の国技館がある横網町側から舟に乗ると、西南側に晴れた日は、霊峰富士の山がよく見えた。この上は幕府の米蔵が近くにあったので「御蔵の渡し」とも呼ばれた。
この辺りには、新吉原の行き帰りに、猪牙舟の客があれこれと、自分の段取りを算段し、また帰りには昨夜の反省と、船頭への自慢話をする、目安となった「首尾の松」が生えていた。この松は八本まであった舟入り堀の、四と五の間にあり、魚釣りの名所でもあった。
船頭も商売とはいえ、毎回他人様の絵空事のような自慢話を聞かされ、頭の血がのぼせあがり、大川の川凬では収まりきれなくなる。猪牙舟の舟賃が高いのは、技術料とこのウダ話の聞き賃も、入っているかも知れない。因みに柳橋から新吉原山谷堀まで約三十町、猪牙舟片道運賃、百四十八文也、一文二十五円として、現在価格約三千五百五十円、近頃のタクシーでは二千五百~六百円で行くという。
「待ちぼうけ、松にたのめど 駄目は駄目」
その柳橋は、両国橋手前を隅田川右岸に流れ込んでいる、「神田川」第一橋梁である。井の頭の井戸を水源とし、善福寺川、妙正寺川と合流、上流部分を神田上水、中流部を江戸川、下流部分を神田川と呼ばれた、江戸上水のひとつで、総延長二十五、四八㌔、現在は総称して神田川、隅田川に注いでいる。神田川については、第五章「江戸上水記」を参照。
「百本杭」
現在の国技館隅田川沿い、JR総武線の鉄橋が架かっている辺りは、隅田川が上流から大きく左折、江戸期から流れの激しい場所であった。この流れに対し、防波のため何本もの杭を打ち込んで対応したのが「百本杭」である。
「百本杭は渡し場の下にして、本所側の川中に張り出る懐をいう。この辺りの東の方深くて、百本杭の辺また特に深めし。ここにて鯉を釣る人多きは、人々の知る所なり」と、露伴は書いている。芥川龍之介も築地から移住してからは、よくここで釣りをしていた。また、百本杭は河竹黙阿弥の「三人吉三廓初買」の舞台でもある。だまし取った百両の大金を握り、片足を杭にかけ「こいつぁ春から縁起がいいわぇ」と、見栄をきる場面である。
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