3 墨田堤/竹屋の渡し/吾妻橋/浅草/竹町の渡し
「墨田堤」
隅田川左岸、汐入りの渡しから「竹町の渡し」辺りまで、墨田堤が伸びている。ここはその名の通り、隅田川の水害から千住宿を開発した,石出掃部が築いた堤である。四代家綱の時代以降、木母寺や水神社辺りを中心に、桜が植え始められた。
その頃の江戸の花見の名所といえば、上野の山であったが、寛永寺があったため余り騒ぐ事も出来ず、夜桜も禁止とあって、江戸っ子たちは隅田川河畔「墨堤」に、花見とそれに伴う人間的交流を求める様になった。
墨堤における桜の植樹はその後も続き、八代吉宗の代には「長命寺、三囲神社、牛嶋神社」から、水戸下屋敷の南側を流れている、「源森川」に架る「枕橋」辺りまで植えられ、墨堤は桜の季節ともなると、花のトンネルとなった。まさに春のうららの隅田川の世界である。
花の頃にでもなると、江戸っ子達はそれぞれに、贅をつくした食材と徳利を下げて、「竹屋の渡し」で向島に渡って宴会をして、「橋場の渡し」で帰っていくというのがこの辺りの一般的な花見のコースであった。
「花より団子」の世界では、「長命寺の桜餅」がある。元禄四年(一六九一)頃から下総銚子の山本長兵衛が、長命寺の門前に住み込み寺男をしながら、桜の葉を塩漬けにし、それで慢頭を包み評判をとった、馬琴の調べによると、その当時売り上げは二百三十両あったという。明治となり、子規がこの山本屋の二階に下宿、そこの娘に惚れられて逃げだしたというエピソードもある。後年その女性と再会して詠んだ句が、
「葉桜の下で昔の人と餅を喰う」
現在、桜橋の袂にある「言問団子」は、維新のどさくさで、生活が苦しくなった植木屋の老人夫婦が、堤の上で団子を売り始めた。しかし、元植木屋さんの団子は、味も体裁も悪く全く売れなかったという。その情況をみてある粋人が、ここは言問橋に近いから、「言問団子」と命名したら売れるかもと、書いてもらった色紙を店頭に飾ると、早とちりの元江戸っ子たちは、業平の頃からの、歴史のある団子屋だと評判をとり、売れ出したというエピソードがある。名は態を現わす。ネーミングも味の内である。
「竹屋の渡し」
「橋場の渡し」を過ぎると、舟は「今戸(寺嶋)の渡し」に近づく。橋場に対して新しく(今)つくられた渡しという意味で「今戸」と付けられた。ここは瓦焼きの今戸と、寺嶋茄子の産地寺嶋村地蔵坂をつないでいた。
次が、現在の言問橋のやや上流、新吉原の舟の玄関口山谷堀(文政年間の地図では今戸橋の側)と、三囲神社を結んでいた「竹屋の渡し」である。「待乳の渡し」などとも呼ばれていた渡しは、文政年間(一八一八~二九)に始まり、昭和八年、言問橋の架橋まで続いた。
「竹屋」の由来は、山谷堀の「船宿」竹屋からとったもので、当時の渡しというものは、定刻を決めず、客が集まれば運行するという形を取っていた。この為、舟が対岸に係留していれば、川向こうから大声で呼びよせた。ここの婀娜な竹屋の女将、客が出掛けるとなると、川向う約百五〇m先に舫っている渡し舟の船頭を、大声を上げて呼びよせた。「たけやぁ~」その声は澄んで美しく、周囲に響き渡ったという。江戸を彩った女性がここにもいた。
「吾妻橋」
少し舟を下流に寄せると、現在の東武の鉄橋辺りに「山の宿の渡し」があった。渡しのあった花川戸付近は」山の宿と呼ばれ、その町名をとって命名された。この渡しは、助六の舞台、花川戸と対岸源森川、枕橋を渡していた。この渡しの少し下流に、「わがつま橋よ そばをわたしもついてくる」と詠まれ、安永三年(一七七四)、隅田川五番目(御府内四番目)の橋として、長さ八十四間、巾三間半で、創架されたのが「吾妻橋」である。
発起人、花川戸の家主伊右衛門と下谷竜泉寺の源八、始めから出願による、全額町人消費により完成した橋である。この二人は当初橋の命名を、浅草寺付近の隅田川が、宮戸川(観音堂=宮、入り口=戸)と呼ばれていたため、「宮戸橋」を希望したが、完成後は「大川橋」がいいという事で、結局幕府は大川橋としている。
しかし、江戸っ子たちは、ここは南葛飾郡吾嬬神社(祭神・弟橘媛)の参道にあたるため、「吾嬬橋」と呼んだ。しかし「嬬」という字は、正式な妻ではないという事から、「妻」の字を充て、吾妻橋とした経緯がある。正式名称となるのは、昭和八年、鉄橋に架け替えられた時からである。
「よき名なる 吾妻もひそひそに 雨になまめき 濡れて通るも」 今井邦子
大川橋は安全確保のため、増水や人出により流失若しくは破損により、下流の橋を壊した場合の損失補償、賠償を定め、冥加金五十両を支払い、通行人からは橋銭を二文と定め、船頭らには橋脚保護作業を課した。
「浅草」
「浅草」という語源は、この辺りが海に近く、浅い草むらが散在して事に因むとされ、台地が窪んだ低湿地を指した。地域名は治承四年(一一八〇)の、「吾妻鏡」に記載がみられる。
浅草の歴史は、推古天皇御宇三十六年(六二八)、駒形堂の近くで檜前(ひのくまの)浜成、竹成兄弟が、一寸八分(約五、五cm)の観音様を網にかけた事に始まる。秘仏の聖観音菩薩は、御本尊の体内に、布に巻かれて祀られているといわれ、檜前兄弟は明日香村西南部に居住していた、渡来人であるとされる、「駒形」は駒方で、高麗方にも通じるとされ、白髭神社も新羅の神に因むという。
入府した家康は、浅草寺を祈祷寺とし、死後の元和四年(一六一八)には、境内に東照宮と随身門が建てられている。浅草寺の総門は「風神雷神門」、通称雷門、この門に下がる大提灯は、巾三、三m、高さ三、九m、重さ七百㌔もある。
「風の神 雷門に 居候」 「雷も 諸国へひびく 名所なり」
門前左右に伸びている道は、両国、上野とならぶ、火除け地の役目をしていた「浅草広小路」である。雷門を始め、吾妻橋など浅草のイメージカラーは弁柄(酸化第二鉄)、ベンガル産の黄味を帯びた赤で、朱色を赤くした色である。
「竹町の渡し」
現在の吾妻橋と駒形橋のほぼ中間にあった浅草材木町と、本所竹町を結んでいた「竹町の渡し」は、花方(花形)、業平、駒形、本所の渡しとも呼ばれていた。江戸期、吾妻橋と両国橋の間、約二㌔の間には、下流の両国橋が材木などにより崩壊されないように、橋は架けられなかった。
「駒形堂」は江戸名所図絵によると、「駒形町の河岸にあり、往古は此所に浅草寺の総門ありしといふ。(略)本尊は馬頭観音なり。祈願ある者賽(かえりもうし)には、必ず駒の形を作り物にして奉納す、故に駒形堂と称す」とある。また、駒形の名の由来は、①川から見る堂の形が、馬が駆ける姿に見えた、②絵馬を堂に掛けた駒掛け堂、③駒神を勧請した堂であるなどと諸説ある。
天慶五年(九四二)、将門の乱によって荒廃した浅草寺は再建され、江戸安政年間(一八五四~五九)描かれた、広重江戸百、第八一景「駒形堂吾妻橋」では、暗い夜空にひらめく赤い旗は、小間物屋紅屋百助の店のもので、当時の紅は高価であった。柳橋から猪牙船に乗って、新吉原に会いに来てくれる男を案じて、二代目三浦高尾はこう詠んでいる。
「君は今 駒形あたり ほととぎす」
遊女は間夫がいなければ、務まらない商売だという。広重は鳴いて血を吐く不如帰と、高尾の血を吐く想いと、紅屋の旗をだぶらせたのであろうか。現在の吾妻橋と駒形橋の中間にあった「竹町の渡し」は、吾妻橋創架後も継続され、明治九年まで運行されていた。高尾の他にも、駒形には「食」の役者が揃っている。「神輿まつ まのどぜう汁 すすりけり」と、久保田万太郎が詠んだ、駒形どぜうや、鰻や麦とろの店などがある。
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