2 千住大橋/鐘ヶ淵/汐入りの渡し/橋場の渡し
「千住大橋」
家康が江戸に入って、四年後の文禄三年(一五九四)、日光道中、奥州道中といった、幹線道路に架けた最初の大きな事業が、この橋の創架である。秀吉が家康を江戸へ促した理由は、関東から奥州にかけての地域を、天下人の勢力範囲に取り込む為であった。このため家康は、江戸の北方の整備を急がねばならなかった。
これに対して、南の玄関「六郷橋仮橋」の創架は、慶長五年(一六〇〇)であり、本格的に改架されたのが同十八年、その橋が貞享五年(一六八八)洪水で流され、以後、橋は架け変えられず「六郷の渡し」となって維新を迎えている。
寛永六年(一六二九)以降、「荒川」と呼ばれてきた自然河川が、「荒川支流の隅田川」と呼ばれる様になる。幕府は秩父盆地から寄居を通り、熊谷へと流れていた荒川を、熊谷東南部付近で、入間川水系に合流させる工事を行い、それ以後、合流点から下流は「元荒川」となり、大宮台地から東武伊勢崎線沿いに、江戸下町低地を流れるようになった。
この荒川の「瀬替」の目的は、小江戸川越と江戸の花川戸間の水運を確保するために、入間川の水運を利用したのである。家康が千住大橋を架けた、文禄三年当時の川の名は入間川であった。
浅草寺は入間川の右岸に開かれ、大和から居住させられた渡来人たちの入間川流域であり、志木(新羅)、高麗もその流れである。(千住大橋、千住宿については第三章「街道をゆく」を参照。尚、この千住大橋のやや上流に「渡裸(とら)の渡し」があった。ここは奥州への古道が通っていた場所で、昔はここを裸になって渡っていたという伝えから、この名がついたといわれている。後になって、「とら」が「とた」に転訛、戸田になったとされる。
「鐘ヶ淵/汐入の渡し」
千住大橋からの隅田川が、大きく南へ曲がる処へ、流れ込んでいたのが「綾瀬川」であり、その地点から下流を隅田川と呼ぶとされていたが、文化二年(一八〇五)御江戸大地図では、最上流の千住大橋までを「角田川」としている。
鐘ヶ淵の名の由来については、大工が寸法を計る曲尺(かねじゃく)のように、流れが直角に近く、右に流れを変えている地点である為、「曲ヶ淵」の名称が「鐘ヶ淵」に転訛したとされる。他にも、「往時、普門院といふこの寺の鐘、この淵に沈みたればこの名あり」と、江戸名所図会はしているが、これはあくまでも伝承の世界であり信じ難い。
図絵と同じ時代、広重江戸百、第百一景「綾瀬川鐘か淵」では、小舟に乗る船頭の頭の上には、大きく合歓の花が描かれ、のどかな田園風景が拡がっている。因みに建築に使う物差しが曲尺なら、和栽に使う物差しを鯨尺という。他に、足袋のサイズを測る「文尺」、菊の花の大きさを測る「菊尺」もあった。
千住大橋から約一、五㌔下流、江戸の海の汐がここまで及ぶ、「汐入りの渡し」を少し下ると、水神社(隅田川神社)と真﨑稲荷を結ぶ「水神の渡し」である。この近くに天台宗延暦寺の末寺、謡曲「隅田川」で知られる、梅若塚が残る「木母寺」がある。毎年四月十五日は「梅若忌」、この日必ず雨が降るという。これを参詣人たちは、梅若の涙雨と呼んでいる。またここは、平安末期頼朝が、「石浜の合戦」を起こした古戦場の跡でもある。
「橋場の渡し」
現在の白髭橋辺りの、隅田川を渡していたのが、「橋場の渡し」である。記録に残る隅田川最古の渡しである。承和二年(八三五)、大政官符には「住田の渡し」と記され、奥州、総州への古道であった。「伊勢物語」の東下りについてもそおの史実性に疑問を残しているが、この物語りに登場する在原業平が、歌を詠んだ渡しはここだといわれているが、業平橋、言問橋説もある。。
「いと大きなる河あり、それをすみだ河といふ。中略、京には見えぬ鳥ならば、皆人知らず。渡し守に問ひければ、これなん宮こどり(都鳥、ユリカモメ)といふ。名にし負ばいざ言とはむ宮こどり,我が思う人はありやなしやと」,
という件の場所である。石浜台辺りから、対岸国府台を眺めた、業平望郷の歌である。
六歌仙の一人業平は、天城(へいぜい)天皇の皇子、阿保親王の第五皇子、在原氏の五男で中将であったため、「在五中将」と呼ばれた。美男説については、三代実録の記載「業平体貌閑麗、放縦不拘、有才学、善作和歌」によるものとされ、この旅では、みちのくの八十島(塩釜)辺りまで、歌枕を求めて脚をすすめたといわれている。
平安末期になり、義経記、源平盛衰記によると、治承四年(一一八〇)頼朝が、平家打倒のため隅田川に舟を浮かべ、それを繋いで「浮橋(船橋)」としたのもこの辺りで、一編上人の絵巻物などにも、板橋架橋の記述があり、「橋場」の地名の由来となっている。橋場の渡しは、白髭橋の架橋に伴い、大正期に廃止されている。
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