第8章 江戸の母なる川「隅田川物語」1岩淵水門・荒川放水路
古代文明は大河のほとりに発祥し、発展をとげてきた。エジプトのナイル川、中国の黄河、インドのインダス川、メソポタミヤのチグリス・ユーフラテス川などには、古代文明が栄えた。近代都市の発展も、川の流れと切り離しては考えられない。ロンドンにはテームズ河が流れ、パリの空の下はセーヌ河が流れ、江戸は勿論「隅田川」が市民と共にあった。隅田川の流域は、関東一円に20数万町歩の水田地帯を有していた。因みに淀川北上川、信濃川などは10~13万町歩である。
1 隅田川/岩淵水門と荒川放水路
日本は地形的には、西南日本と東北日本が「逆くの字」の形で、利根川の河流の線で接続、古代から中世にかけ、大和政権と蝦夷(みちのく)勢力との境界線であり、民族の違いの境界でもあった。利根川は東北日本山脈と、河川の方向を延長する形で東京湾に注ぎ、その河口がみちのく(奥州)最南端の湊=江戸の地であり、隅田川河口であった。「隅田川」の「すみだ」の文言は、万葉集では「角田」、伊勢物語では「墨田」の文字を使ったものも見られ、吾妻鏡では「墨田」、正保政国図では「須田」の字が使用されている。江戸期になって、隅田川、角田川、墨田川、須田川が充てられている。
関東ローム層から大雨、洪水によって流れだした、砂が混ざった河川は、とても「隅田」の字を充てるには、敷居が高かったに違いない。故に「墨」の字をもって、その汚れを紛らわせたとも考えられる。この「すみだ」という言葉は、下総国の国府(市川市国府台)から見て、下総の西隅を表現したもので、古来の東海道が相模から走り水、安房、上総、下総、常陸を経由した事による。武蔵国は当初「東山道」に属していた。隅田川と云えば、江戸時代以前は、利根川本流の下流部分の呼び名であり、江戸の頃はと云えば、汐入り大橋の上流、綾瀬川が隅田川に流入していた地点から、下流を指していた。また、江戸期の隅田川は、向島辺りの土手から、曳舟、押上方向へ三流に分流、現在の大横川、横十間川、北十間川に沿う形の、流れがあったとされる。利根川の瀬替えは文禄3年(1594)から60年の歳月をかけて、承応3年(1654)に一応完了、荒川を入間川に付け替え(瀬替え)る事によって、隅田川の河道は荒川の本流(下流部)となり、新河岸川、石神井川、神田川、日本橋川などの、支流河川と合流している。隅田川と呼ばれる川は、古老に云わせれば、白髭橋から上は「荒川」、そこから吾妻橋までが「隅田川」、浅草寺が拝める厩橋までの川筋が「宮戸橋」、その先永代橋までが「大川」、永代橋から江戸の海までを「永代橋川」であった。それぞれの名称は、それぞれの川の表情、趣きを捉えた呼称であった。
江戸時代、防衛上の観点から、橋の架橋は5つに限られたが、代わって隅田川を渡る為に多くの「渡し」が誕生した。外濠の役目を果たした川に多くの渡しを設けたのは、両岸に集落、市場が存在したためで、その基盤を支えたのがこの隅田川である。江戸期より増え続けた渡しは、明治政府によって橋が架け始められる初期には、20以上の渡しが隅田川を往来していた。昭和39年、隅田川最後の渡し「佃の渡し」が幕を下ろし、2021年現在、30以上の道路橋や鉄道橋を数え、このうち26橋が徒歩で渡れる一般橋である。現在では一企業が、工場の敷地を隅田川で分断されている為、従業員専用の渡し船を運航している。
「岩淵水門と荒川」
隅田川と荒川が分流している「岩淵水門」の辺りに、正応年間(1288~93)水陸交通の要衝として宿場が形成されていた。戦国時代には、岩淵5ケ村からなり、江戸期になると、日光御成道の初宿、岩淵本宿として成立している。この「岩淵」という名の由来は、かって荒川岸は、岩石がそびえ立つような、崖を形成していた事からだといわれる。「荒川」は秩父山脈、甲州、武州、信州の国境地点、甲武信岳を水源として、入間川をあわせて江戸湾に注いでいた。古くは利根川の支流で、水量が乏しく勾配が急な為、蛇行が甚だしく洪水が起きやすい所から荒川と名付けられた。総延長177m、主な支川だけでも99本あった。寛永6年(1629)荒川の河道を入間川の河道に移して利根川と離したが、それでも洪水や高潮が頻発、大洪水に見舞われていた。この為、明治政府は19年間を費やし昭和5年に「荒川放水路」を完成、現在放水路を「荒川」、岩淵水門から南流する旧荒川を「隅田川」と呼ぶ。明治政府によって、治水を目的として19年の歳月をかけて完成された「荒川放水路」は、当初、中川へ水を落とす計画であったが、明治40年の台風による洪水のため、浅草、本所、深川の約六割が浸水、同43年に再び大洪水に見舞われたため翌44年から工事を開始、全長6里、上流巾220~250間、下流巾250~300間の人工河川が昭和5年完成。これにより多くの流域住民たちが、安く田や畑を買い上げられたり、転居を強いられている。この結果、荒川の下流部であった隅田川は北区赤羽の岩淵水門で分かれ(荒川放水路と隅田川の水位差2,83mで隅田川の方が高い)、独立した23,5㌔の川となり東京湾に注いでいる。昭和39年の「河川法改正」により、その名称は「隅田川」とされたが、江戸幕府の公文書は一貫して、隅田川を「浅草川」と呼び、その河口付近を「大川」と表現している。それでも「隅田川」には色々な名称が、その時代、その場所によってつけられ、千住より上は「荒川」、浅草辺りは「浅草川」、駒形辺りは「宮戸川」、両国辺りより下は「大川」と、一般的に呼ばれてきた。江戸期、隅田川に架けられた橋は府内4橋、千住大橋を含め5橋があった。創架年代順に列記してみると、文禄3年(1594)千住大橋、万治2年(1659一)両国橋(大橋)、元禄6年(1693)新大橋、元禄11年(1689)永代橋、安永3年(1774)吾妻橋(大川橋)となる。
江戸から東京になって、江東地区一帯では、工業用水を安価な地下水に求めた結果、地盤が沈下、天井河川からの水の逆流を防ぐ為、多くの水門が設けられた。当時の地下水使用価格は、1円か3三円/㎥、上水道の1割から2割程度の値段であった。この安価な地下水を提供した結果、国、自治体は堤防、水門、土盛りなどの公共支出を強いられ、財政を圧迫した。それ以上に苦しめられたのは地域住民である。水門、堤防の金銭的分担負債を強いられ、大水、台風により慢性的な洪水、冠水に襲われ、まさに一部企業とそれを認可した行政の為に、国家的債務と人的苦痛が繰り返された。川は自然的人為的原因に関わらず、その流路の一ヶ所にでも変化が加えられると、流路や流域は加えられた変化に応じた形て、それまでの流れから全く新しい流れ方をするようになる。こうした川の流れを無視した結果が、台地状でも洪水常襲地帯が発生につながっている。江戸の頃はもとより自然堤防であり、人為的地盤低下もなく、各々の河岸は水門なしの掘割で活気を呈していた。
江戸時代の橋の材質は木材であり、腐蝕による崩壊や、橋脚に流木がぶつかり、流されることもしばしばであった。この為建設、維持に莫大な費用を要した。永代橋も廃橋案も出たり、一時は町人管理となっている。明治に入り、木橋から鉄橋に架け替えられ、震災後には「帝都復興事業」により、その後の地震にどのタイプが優れているかを探るため、①不燃性の橋にした ②タイプ、デザインを変え、選定につき意見を求めた ③橋名を公募したなどの努力により、隅田川は橋の宝庫といわれる程、形の異なった橋が誕生した。しかし、枠組みが鉄製、歩行する橋の面が木製であった為、戦災時には底板が焼け落ち、大きな犠牲をもたらしたのは、まだ記憶に新しい出来事である。
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