第7章 庭園都市「江戸のガーデニング」
江戸時代、首都江戸の町の人口は約百万、江戸が一番江戸らしかった時代とされる文化、文政時代では百二、三十万を数えたという。その頃は人間さまの間に身分制度があって、一番偉い?支配階級の人間は士分、次いで米を生産する農民、物を造り出す職人(工)、四番目が物を仲介して利ザヤを稼ぐとされた商人であった。しかし、身分制度では一番下であった商人層が、江戸中期になると財を蓄え、年俸が一生上がらない士分に金銭を融通、実質的には優位な立場となっていった。江戸時代の人口比は、士分や寺社関係の人間が約半分の五十万から六十五、六万、この数字は毎年やってくる参勤制度のため、正確には把握されてない。一方の一般庶民と呼ばれた農民、職人、商人層が、併せて江戸人口の半分を占めていた。江戸の町は人口数に合せて、土地が占有されていた訳ではない。現在でもそうであるが、持てる者、持たざる者の格差が大きかった。江戸の真ん中にドカッと腰を据えた将軍様は別格として、大名、旗本クラスは数千坪から、八丁堀の同心の百坪まで、士分は土地だけは恵まれ、江戸街の約七割を占めていた。片や同じ人口数を占める、庶民たちの住環境を見てみると、日本橋の大店は別として、いわゆる八っぁん、熊さんといった職人達の住まいは「九尺二間」、つまり一世帯当り三坪、而も借家、所有権といった七面倒臭い言葉がなしの世界であった。
大名、旗本屋敷、寺社の境内には、縁起を担いだり、粋を凝らした樹木や花が植えられ、長屋の軒先には、縁日で買い込んだ酸漿や朝顔が季節を彩り、江戸の街はおのずと「庭園都市」の装いをなしていった。江戸の三大道楽といえば、釣りと骨董、そして今回の主役園芸である。イギリスの植物学者ロバートフォーチュンは武州染井村を二度程訪れて、我が国の園芸規模と奥の深さに驚嘆したという。かって、公家社会の間で行われていた鑑賞用の植物や花の栽培は、江戸の化成期(一八〇四~二九)には大衆化し、その時代により流行り、高値をつけるものも出てくるようになる。「寛永の椿」「元禄のツツジ」「正徳の菊」「享保の楓」や、一鉢百両以上もしたという「寛政の唐橘」から、幕末近い嘉永年間には「変化(変わり)咲き朝顔」が人気をよび珍重された。この朝顔の栽培は下級武士たちが、現金収入を目的として組屋敷(御徒町など)で始められ、突然変異した珍しい品種は、高値で取引されていた。このように江戸における草花や植木の栽培は極めて熱心で、新種や異種の開発までが載っている、染井村の植木屋の「草花絵前集」などがよく読まれた。また桜草についても、巣鴨や庚申塚辺りの植木屋が専売で、大川上流の戸田や浮間ヶ原辺りに自生していた野草の桜草を品種改良したものや、珍種が人気を呼んだ。特に女性たちには愛好され、新吉原の遊女たちからも注文がきたという。「横にして 格子に入れる 桜草」
また、「稗蒔売」とう商売もあり、これは稗の芽を緑の田圃にみたて、その中に農家や山案子の置き物をおいた、ミニ田園風の箱庭盆栽であり、初夏の風物詩であった。「お富士さんの植木市」や、「朝顔市」「酸漿(ほおずき)市」など、現在でも園芸ブームで引きつがれている。神社仏閣の縁日や草市も人気があり、街々の路地裏には棒振りが植木を売りにきたが、こちらは比較的割り高であったという。それでも九尺二間の住民たちは、季節のものが売りにくるとついつい買い込み、女房殿に文句を云われながらも、せっせと丹精をした。現在の花好きが置き場もないくせに、見た物が欲しくなり、買い込んでくるのと一緒である。各階層の生活ぶりから検索すると、江戸中期以降は泰平の世が続き、武芸はたしなみと化し、財政的にゆとりのある旗本たちは遊芸に励み、ゆとりのない御家人たちは昇給のない家計を助けるために、内職に励む事になる。寺子屋の先生や傘張りに、少し広い敷地を利用した、花や植木の栽培に精を出した。これらは後世になり、その街の名物、名産になるものさえあった。少ない収入を支える、地域別内職一覧は次の通りである。「下谷の朝顔に金魚」「麻布、百人町、四谷左門町の植木や草花の栽培」「代々木、千駄ヶ谷の鈴虫やコオロギの繁殖」などから、技を生かして「青山では傘張り、春慶塗り」「巣鴨では羽根細工」「牛込弁天町では提灯張り」にと精をだした。「大久保の映山紅(きりしまつつじ)は、弥生の末を盛とす。長丈余(三m以上)のもの数株ありて、紅艶を愛するの輩とくに遊す」としている。大久保とは現在の新宿区大久保百人町、江戸御手先同心たちが、内職で躑躅(つつじ)を栽培したのが始りとされ、特に飯島某という同心の躑躅は一丈余りで、数千本を栽培していたという。
因みに御家人とは、鎌倉時代においては個人的御恩奉公の関係である、将軍直属の武士団であったが、江戸時代に至り、同じ直属ながら旗本が将軍御見得であったのに対し、御目見得以下の身分の者を指した。戦場においては徒士、平時であっては普請方勤務や警備の仕事など、知行知を持たない三十から八十俵未満の蔵米取りの下級官使であった。いわゆるサンピン(三一)とは、ポルトガル語で「一」の言葉を指すが、「三両一人扶持」は、一日につき玄米五合、現金にすると、年間収入三両一分が支給される下級武士、渡り奉公の中間も同じく三両一分の年俸であった。この少ない俸給を手数料を払って現金にし、毎日の生活に充てた。従って毎年が赤字の積み重ね、近未来の俸給までも担保にする事で、御家人初め、士族たちの財政はスパイラル式に貧窮していった。同じく全国諸藩で、御家人のように微禄な藩士たちは、藩から「給人地」と呼ばれる農地を給付され、それを耕し半農半士で、自分達の家計を支えたが、都市部の御家人たちは、内職をしてその生活を支える他に、生きる道はなかったのである。
江戸江戸時代、現金収入を見込めるものとして、上記の他に「四木三草」と呼ばれるものがあった。四木とは、茶、桑、漆、楮(こうぞ)の木、三草とは麻、紅花、藍である。江戸の台地、山の手街は関東ロームの上にのっている。この地層はもともと酸性の土壌である為、リサイクルで回収された、アルカリ性の灰を土壌にまぜ、作物、樹木、草花の育成を楽しみにした。使用される灰は金を出して買うものであるから、干鰯と同じように「金肥」と呼ばれるもの、従がって灰も財産のうち、与三郎が「かまどの灰も俺のもんだぁ」と権利を主張しているのは、時代に即した台詞であった。
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