第6章 江戸の時間割「時の鐘」
暑さ寒さも彼岸まで、太陽が赤道上にくる頃が、一日の昼の長さと夜の長さが同じになる。春分を過ぎ太陽が北回帰線に近づくと、地球が約二十三、四度傾いているため、朝から夕方までの昼の時間が長くなる。その最長日が夏至ル、「夏至」でその頃の昼の一刻は約二時間三十八分前後である。逆に秋分の日が過ぎ、太陽が北半球に住んでいる日本にしてみれば、一番遠い南回帰線に近づくと昼の長さは短くなり、夜の長さが一番長い日が冬至ル、南瓜を食べ柚子湯に入る習わしの「冬至」、この頃の昼の一刻は約一時間五十分前後、夏と冬の昼時間差は約半刻弱もあった。
時刻は古来「定時制」であった。宣明暦では一日は「十ニ辰刻」これは百刻、八千四百刻に相当した。辰刻法とは一日を子、丑、寅と十ニ支で表す時刻表示法である。「子刻(ねのこく)」は午前零時を指し、正確には子の上刻は午前零時、子の中刻は午前一時、子の下刻は午前二時、つまり丑の上刻を指した。一方、「子時(ねのとき)」と表現する場合は、午前零時から二時までの間を指した。従って「刻」と「時」では同じような意味合いであるが、指す時間の空間に開きがある。江戸時代、人々の大半は太陽と共に起き、太陽と共に寝た。究極のエコ生活を送っていた。その一日を刻み知らせたのが「時の鐘」である。江戸の時刻は弘化元年(一八四四)天保暦が制定され、「不定時法」が採用された。太陽の俯角が七度二十一分、四〇秒になる日の出、具体的には日の出前三十六分、空がしらじらと明ける時点を「明六っ」とし、同じ府角の日の入、日没後三十六分、とっぷりと夜の帳がおりる時点を「暮六っ」として、その間を六等分にして六等分の一を「一刻(いっとき)」≒二時間、その半分を半刻、さらにその半分を四半刻(三十分)とした。これが当時の最小の時の刻みであり、分、秒刻みの現代とは異なる、空間のゆとりがあり、それが当たり前であった。従って夏の昼間は長く、冬の昼間は短い、これを六等分すれば自ずと夏の一刻は長く、冬の一刻は短くなった、故に不定時法という。不定時法では午前零時を暁九っと表現、朝四っが午前十時と段々下がり、午後零寺は昼九っとまた九に戻り、八っ、七っと減っていった。これを上手く使ったのが落語「時蕎麦」である。尚、明け、暮については諸説があり、一例として、日の出は太陽が少しでも見えた時とし、日の入りは太陽が見えなくなる寸前を指すという。因みに、暮れかかる夕映えに染まる時刻を、誰彼時(たそがれとき)、暮鐘時、雀色時と呼んだ。「暮れかかる 軒端見て居る 美しさ」「闇の夜を 一針づつに 蛍ぬい」のどかな江戸の一日があった。
では江戸の一日の仕切りは、何処を基準として一日と決めたのであろうか。①子の刻、午前零時をもって一日の始まりとした。これを「天の昼夜」といった。②公式の行事や武士社会では丑の刻(午前ニ時)と寅の刻(午前四時)の間、丑の中刻(午前三時)を一日の始まりとした。③江戸市民の間で一番一般的にひろく使われていたのが、明け六っを以て一日の始まりとするもので、これを「人の昼夜」といった。おおつごもりの夜、中元から今年いっぱいの掛け金を、回収しようとする商人、その掛け金から逃れようとする庶民の攻防は、雀が鳴く明け六っまで続く事になる。たまたま元旦の朝が雨空でお天道さまが見えない、雀が鳴き遅れた場合は、さらにこの攻防は続く。因みに一ヶ月の月の満ち欠は、二十九日十ニ時間四十四分三秒弱、太陰太陽暦では二十九日の小の月と三十日の大の月を組み合わせたり、十九年に七回の閏月を設けて暦を調整していた。
江戸時代、時を知らせる根拠が、お天道様相手では、不都合な日もあると考えた幕府は、初期の頃は西の丸で時を知らせる鐘を置いていたが、将軍様の御座所近くにあったため、昼も夜もやかましいという事で、家康の代では朝晩ニ回、秀忠の代では一刻おきに太鼓を打つようになった。しかしこれでは地元の人間には聞こえない。結果、日本橋石町に鐘撞場を、寛永三年(一六三六)に設置することになった。時の鐘の正確性を保つため、城内で時計が使われた。城内の御時計は慶長十八年(一六一ニ)家康がスペイン国王から贈られたもので、不定時法の和時計として、最古の機械時計、現在は久能山東照宮に保存されている。この時計が置かれた「御時計の間」に時計奉行が控え、三基の時計を基準として太鼓を打ち、時報を知らせた。しかし、時計の刻み方は正確である。春秋の彼岸には良いが、夏至、冬至になると、生活感と時報の一体感が離れてくる。そこで、時計の文字盤を細工、夏用には昼の時間帯の間隔を少し拡げ、一刻にゆとりをもたせ、冬用はその逆に細工した。また昼夜で時計の歯車の回転に、変化を与えるなどをして、時刻の違和感を取り除いている。更に時計だけでは心もとないので、線香も併用した。常香盤の香(線香)に燃える道筋に、時間毎に印をつけ、燃え具合と時計とを合わせ、正確な時間を割りだす努力をした。この線香はもともと寺院等などで、古くから使用されていた方法である。この時報にそって若年寄りは五っ(午前八時)、老中は四っ(午前十時)に登城、八つ(午後ニ時)まで勤務した。
江戸市中の「時の鐘」は、城内鐘撞役であった辻源七が寛永三年(一六二六)本石町三丁目にニ百坪を拝領、新たに鋳造された鐘を使用、城からの太鼓の音と石町の時計を併用し、「時の鐘」の仕事を始めた。昼夜十ニ回、時の鐘が届く範囲、江戸中心地三百町から鐘役金として一ヶ月に永楽線なら一文、ビタ銭なら四文徴収をした。「石町は 江戸を寝せたり 起こしたり」。その後江戸の拡大により石町の他に、元和五年(一六一九)から、寛文六年(一六六六)にかけ、浅草寺、上野山内、本所横川町、芝切通、市ヶ谷亀岡八幡、目白不動、四谷天龍寺、赤坂田町など八ヶ所に設置された。宝永七年(一七一〇)石町の鐘は火災に会い、翌八年、椎名伊予、藤原重休によって鋳直しされている。寛延三年(一七五〇)幕府はさらに目黒の祐天寺、下大崎寿昌寺のニヶ所の設置を公認している。(江戸名所図絵では文政年間(一八一九~ニ九)となっている。現存している鐘は合計五ヶ所、本石町の鐘は現在、宝永年間鋳造された鐘が昭和五年に十恩公園に移転、毎年大晦日の夜になると、振る舞い酒を飲みながら順番で撞く事が出来る。現在では、上野山内の鐘は明け六つ、正午、暮六つに、浅草寺は明け六つに、祐天寺の鐘は正午に撞かれ、時を知らせている。
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」
時を知らせる鐘は、先ず捨て鐘を三回撞いてから(京阪はひとつ)刻の分だけの数を撞く。江戸の頃は大体一里未満(ニ~三㌔)範囲が聞こえた。凬がいい日は凬に乗ってニ里から三里ほど先まで聞こえたという。江戸のサウンドスケープ(音風景)が拡がった。石町の鐘は、北は本郷、南は芝浜町、東は本所入江町、西は麹町、飯田町辺りまで聞こえたという。撞役銭の収支は鐘が聞こえる範囲三百町(元禄年間以降四百十町)を対象に、近くても遠くても同額の、家持一軒につき一月四文、年に直すと四十八文、ニ八蕎麦三杯分となるが、武家は石高により徴収、元文三年(一七三八)の資料によると、辻源助(代々)の年間収入約九十両、経費は鐘撞人給料五人分と、鐘の修理、維持、時計磨き賃などで四十一両となっている。江戸砂子には「石町の鐘、御城内よりくだりたると云。数度の回録にて鐘の声あしく成りしかば、近年椎名、伊与これを鋳直せり。音渉調にて長久の音と云」と記される。因みに日本の鐘の音は、琵琶湖畔大津の三井寺がよしとされている。
「石町時の鐘」が置かれた日本橋本石町(現在は日本橋室町)は、寛文年間(一六六一~七二)から一から四丁目まであり、江戸開府前は福田村であった。開府後、米穀を商売とする者が多く住むようになった為「石町」と呼ばれる様になった。のち神田今川橋にも石町が出来た為、日本橋を本石町、神田を新石町とした。その三丁目の横丁を鐘撞道新道という。この道を東に進むと「伝馬町牢屋敷」、刑の執行においてはそれとなく遅らせて撞かれ「情の鐘」と呼ばれた。四谷天龍寺の鐘は、内藤新宿女郎部屋の武士を遅刻させない様、半刻前撞かれた追い出し用の鐘、また、平蔵が放蕩を尽くしたといわれる、竪川と一っ目通りが交差する入江町の鐘は、由蔵とよばれた鐘撞き職人が撞いていたが「当てにならぬもの、入江町の時の鐘」と詠まれ、時の鐘も撞く人間により大きく性格が変った。鐘撞堂と背中合わせには、阿蘭陀の商館長一行が宿泊する「長﨑屋」があり「石町の 鐘は阿蘭陀 まで聞こえ」 と詠まれ、また、芭蕉は 「阿蘭陀も 花に来にけり 馬に鞍」 と詠んでいる。一行は、桜の季節に長﨑出島から九州を横断、瀬戸内を渡って鞆の浦に寄り、大坂から東海道を江戸にやって来た。
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