「家康ピンチ」13 秀吉台頭

 天正10年(1582)人生最大のピンチ「伊賀越え」を果たした家康は、6月14日尾張鳴海にまで出陣したが、19日上方平定の報告を確認、兵を浜松へ引き返した。「本能寺の変」後の後継者争いは、中国大返しをいち早く成功させ、明智光秀を討ち主君の仇を取った羽柴秀吉が、事を優位に展開していった。「清須会議」「大徳寺の葬儀」を経て、秀吉は柴田勝家と対立していった。信長の三男信孝を擁した勝家を、天正11年(1583)4月の「賤ケ岳の戦い」から、越前北ノ庄(福井市)へ追い込んでいった。浅井長政と同じように、三国一の美女と呼ばれた信長の妹・市の美を惜しんだ勝家は、妻に三人の娘たちと共に落ち延びることを勧めた。しかし、猿(秀吉)嫌いの市は、武骨であるが情の深い夫と共に死ぬことを決めていた「浅井三姉妹」にとっては小谷城で父を失い、ここ北ノ庄で母を失う二度目の落城であった。三人の娘たちは秀吉のもとに送られ、後に秀吉の政治の道具として使われていった。長女・茶々(淀君)は、後年秀吉の子・秀頼と共に、元和元年(1615)、秀吉が築いた大坂城で三度目の落城をみる。賤ケ岳から北ノ庄の秀吉一連の戦いは、のちの「関ヶ原の戦い」での家康と同様に、豊臣政権の樹立を予言するものであった。

 秀吉は「山崎の戦い」で光秀を滅ぼした時点から、摂津国石山本願寺の跡地に大坂城の建設を予定していた。当初、築城の手伝いを命じられていたのは近在の百姓たちであった。その日当は米、しかもかなりの量の米であったため、彼らは女房に野良仕事をさせ、本人たちは喜んでそれに参加した。小豆島の花崗岩を切り崩して運び、そこへ木造建築物をのせ、白壁と瓦と黄金で城を飾った。秀吉の大坂城建設の目的は、軍事目的というよりも自己の権力、権威を表現する目的としての建築物であった。自分の位置・立場が周囲の世界から、世間の目からどう映っているか、どう見えているかを考えながら造り上げていった。秀吉が大坂城の普請に取り掛かっている間、家康は甲斐国の経営にあたっていた。家康は主を失い分散直前の武田武士団を、その組織のまま自己の軍団に編入していった。焼け落ちた恵林寺などを、家康が修復するのを見ていた甲州武士たちは、家康に恩義を感じていた。また、これまで対立関係にあった北条氏とも天正10年和睦、徳川方は上野沼田を、北条方は信濃佐久及び甲斐都留の二郡とをそれぞれ交換、家康次女督姫を北条氏直に輿入れさせた。家康は自分の娘督姫から、小田原、江戸など東国の情報を探ることが出来た。このことは家康にとって、天正18年(1590)江戸入府に際し、大いに役立つことになる。

 ➁「小牧・長久手の戦い」 今までの先輩、同僚を破り臣従させてきた秀吉も、主信長と同盟関係にあった家康との処遇には神経を使っていた。天正12年(1584)秀吉は摂津国に置いていた池田父子を美濃に移して、大坂築城を開始するなどして、天下取りの野望をあからさまにしていった。この秀吉の本音を知った織田信雄は家康に接近、秀吉と距離を置くようになる。こうして、始まったのが「小牧・長久手の戦い」である。この時期、秀吉、信雄両者のい関係は比較的良好であったが、天下を臨む立場となってきた秀吉にとって、主筋の信雄は邪魔な存在になっていた。また、池田恒興の母は、信長の乳母であったため、信雄はその帰属を大いに期待していたが、是も外れた。そうした信雄が接近していったのが家康である。同年3月、秀吉と信雄の対立をベースに、家康が信雄の要請を受け、長良川沿いに建つ犬山城から、犬山街道(現在の名鉄小牧線、木曽根線)に対峙したのが、小牧長久手の戦いである。同月13日、北伊勢方面の戦いで、秀吉軍の池田、森隊が犬山城を攻略したが、戦略の失敗から酒井忠次がこれ襲撃、大勝利をおさめ家康は小牧山を占拠、織田・徳川連合軍1万7千人に対し、秀吉軍は楽田(犬山市)に6~10万の軍勢を布陣した。城攻めの場合、籠城に対し4~5倍の兵力を費やす。秀吉は家康を小牧山から引き出す作戦にでた。別働隊による家康領国三河侵攻である。雪辱を期すべく池田、森隊2万余が4月6日、三河に向かったが、この作戦を家康側はすでに察知、9日三河侵攻軍の最後尾を急襲、慌てて引き返してきた池田、森隊と激戦、池田恒興、六助父子は討ち死に、森長可は眉間を撃たれ即死した。長可は当時26歳、父可成の戦死で家督を継いでいた。弟の蘭丸ら3人は信長の小姓として本能寺で討ち死にしていた。この戦いによる死傷者は1万余、秀吉軍にとって壊滅的な敗戦であった。この報が京へ伝わるとかなりの騒動となったという。この戦いの後、両軍主力は激突することなく推移していった。

 この合戦は当初より外交戦であり、織田、徳川連合軍には北条、長曾我部、佐々成正や紀州の一揆衆が有力な味方あり、秀吉側は毛利、上杉、佐竹などであった。諸国の大名たちを巻き込み、双方とも力による外交戦を展開していった。11月11日、秀吉から織田工作が進められ、信雄は伊賀国、伊勢国と人質を提供した。和議とは言えず、秀吉に敗北した形である。家康はこれを見て、戦いの意味を無くし、3月以来の合戦を終了、岡崎へ帰っていった。12月には次男於義丸(結城秀康)を人質として送る。家康は戦いには勝ったが、秀吉の巧みな外交戦略に負け、秀吉優位の和議でこの戦いは終った。天正13年の小牧長久手合戦時には気脈を通じていた諸大名たちが、その後の秀吉優位性を勘案し、次々と秀吉の軍門に下っていった。戦には勝った家康ではあったが、政治面、外交面では秀吉には勝てなかった。天正13年(1585)7月11日秀吉は従一位関白に叙任、五奉行を設置、政権を担っていくことを天下に示す。

 





江戸純情派「チーム江戸」

ようこそ 江戸純情派「チーム江戸」へ。

0コメント

  • 1000 / 1000