「家康ピンチ」12神君伊賀越え
天正10年(1582)家康は、一連の武田氏との戦いの功績で、駿河一国を与えられた礼を述べるため、酒井忠次、本多忠勝などを40~50人の少数の家来たちと、穴山梅雪を伴って安土城に入った。この時の饗応役が明智光秀である。光秀は「続群書類従」によると、鰹の刺身、鯛の焼き物、膾、鮑の煮物、ホヤの冷汁などで家康一行をもてなした。3日間のもてなしの後、家康一行は、当時の交易都市堺に立ち寄り、茶屋四郎次郎の蔵屋敷に逗留、鉄砲製作の視察研修などを行った。堺の町は大陸貿易との一大基点として発展、堺商人の経済力は、地方の一大名それを凌ぐほどであった。因みに、堺の町の名称は、摂津国、和泉国、河内国三国の境にある為からとも伝わる。
「本能寺の変」の一報は、この堺商人茶屋四郎次郎によってもたらされた。彼の店の茶屋に、足利13代義輝が立ち寄り、茶を飲んだといういきさつから、屋号を「茶屋」にしたというが、兎に角、事は一刻を争う。明智軍が家康の退路をたちまち塞ぐであろうし、落武者狩りが始まる。更に面倒なことに、家康が京に戻り、知恩院で腹を切ると言い出した。家康本人はそれで自己満足を満たしてそれでいいだろうが、その家来たちはそうはいかない。主がいなくなれば国も失うし職も失う。何のためにこれまで命を懸けて働いてきたかの意義がない。先ず本多平八郎忠勝が異を唱えた。「殿の切腹より弔い合戦が先である」。家来たち主導により、家康一行は紀州山脈を横断する「伊賀越えルート」を選んだ。「三方ヶ原の戦い」「関ヶ原の戦い」に勝る、家康生死を賭けた、人生最大のピンチの始まりである。ここで本領発揮したのが、二代目服部半蔵正成である。半蔵の父親保長、一代目は忍者で伊賀の出身である。半蔵は伊賀の土豪や忍びたちに協力を求めるべく、茶屋が持ち込んだ金子を使った。地獄の沙汰も金次第である。三途の川もただでは通してくれない。半蔵は忍び200人を集め、家康一行を守らせ、険しい間道を伝い2日後の6月4日、無事伊勢の白子湊(鈴鹿市)に到着した。この半蔵の働きと同時に「伊賀越え」成功の陰には、伊賀者たちにある思いがあった。与えられた金子の他に、忍びたちが家康を護った理由として、「信長伊賀之国を切り取らせ給いひて、撫切りにして国々へ落ち散りたる者までも、引き寄せ引き寄せ御成敗被成せる時、三河へ落ち来りて家康を奉順たる者を、1人も御成敗なくして云々(三河物語)」があげられる。「本能寺の変」が起こる前年、信長は伊賀国に攻め入り、多くの伊賀者たちを殺傷していた。こうしたことから、信長の盟友と見られていた家康が、すんなりと伊賀の国を通過出来るとは思われなかった。加えて、伊賀路は険しい山道、普段から山賊たちがうろついていた。生きて三河へ帰る保証は何処にもなかった。
半蔵は「天目山の戦い」より、家康に従属していた穴山梅雪に目を向けた。梅雪は小太りで全体的なイメージが家康に似ていた。半蔵は梅雪を家康に見立て別のルートを進ませる事にした。別説では、梅雪本人が家康との共倒れを恐れたためともされる。6月2日、堺から逃れ飯盛山を越え山城国田原へ入る。この間13里≒50㌔、東海道の平地を歩いても1日35~40㌔がやっと、家康はこの山路を必死で逃げた。6月3日には近江国信楽の小川村にある多羅尾光俊が、宿を提供しょうと申し出てきた。一同光秀の与党であろうとしたが、忠勝は「行くも行かぬも同じ死ならば、行きて死ぬほうがよかろう」と述べ、一同賛同したという。この日は城館に逗留、翌4日伊勢湾白子湊から舟で湾を横断、対岸三河大浜に上陸、命からがらの「伊賀越え」を成し遂げ、岡崎城に逃げかえった。具体的ルート(飯森山~宇治山田~小川城~柘植~加太越~白子、関西本線ルートなど)や、戻るまでの日数には諸説あるが、「徳川実記」には、6月7日には、家康は岡崎に戻ったとされている。6月2日が「本能寺の変」、その日のうちから堺からの逃避行が始まったとして、6日間の死に物狂いの、帰りは恐い脱出劇であった。帰国後、家康は「松平家忠日記」によると、直ちに大規模な動員命令をかけたが、折からの大雨のため、6月14日、尾張鳴海まで出陣したが、6月19日、秀吉の上方平定の情報を確認、浜松に引き返したとされる。1週間ほどのロスが生じた。この間、秀吉は世にいう「中国大返し」を敢行、6月13日「山崎の戦い」で光秀を破り、天下人の道を歩み始めていた。家康は信長の盟友でありながら、少人数で堺に滞在していた事や、「伊賀越え」、帰国後の天候不順etc.etc.で、光秀との臨戦態勢がとれなかったため、秀吉に大きな遅れを取った。天下に実績を示すことが出来なかった。この数日の狂いが、秀吉が死ぬまで家康の天下取りを遅らせた。「清須会議」「賤ヶ岳の戦い」「小牧長久手の戦い」と戦う度に、秀吉の天下統一モード、優位性がが広がっていった。
「伊賀越え」はわが生涯で最大の危機であったと、後に家康自身は述懐した。この事件で家康は情報の大切さを痛感した。信長、秀吉が忍者を余り活用しなかったのに比べ、「関ヶ原の戦い」や「大坂冬の陣、夏の陣」においては、これを大いに活用、勝利に導いている。一方、信長は本能寺に入る時も、充分な見張りを立てず、周辺の警備も怠った。あの鋭い信長が情報を軽視したのか、京には我が敵はいないと慢心したかは定かでな
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