家康ピンチ「本能寺の変」③ その真相
家康は信長に招かれ、京や堺を視察研修しながら廻っていた.摂津国の産土神住吉大社を参拝、堺の豪商、茶屋四郎次郎たちと交流を深めながら、近臣の者たちと上方の経済、文化を肌に触れ吸収していた。その時、同盟軍の信長が本能寺で横死したという知らせを受け、家康、一時は頭脳が錯乱、京へ戻って寺の一角で切腹すると言い出した。家康は「三方ヶ原の戦い」などでも見られるように、突然一国の領主とは思えない、計画性のない、幼稚な事を言い出す。この時もそうであった。「死んで何が何が残る」これを止めたのが酒井忠次と服部半蔵であるといわれている。「とにかく国元に戻り体制を整えることだ」この言葉は、家康本人の言葉でなく、家来たちが発した言葉である。家康君、気が完全に転倒転落していた。半蔵らに引きずられるようにして、紀伊山脈を越えた。家康は山を越え、谷を降り、がさ薮に脚を捉えながら考えた。今まで同盟者といわれながら「お主はわしに何をしてくれたのか?」いつも好きなように使われ、危険な作戦、損な立ち回りには真っ先に駆り出されてきた。それも当たり前の様にである。これらも武田氏が滅びるまでであった。武田氏が滅んだ今、家康の存在意義はなくなった。信長が独自の路線を敷き、師団長を使って「天下静逸」を成し遂げればそれで良い事であった。瀬名姫や信康を犠牲にして、護った徳川家がこれか。ならば。安土へ来る前に、周辺を固め用兵を準備しておけば、こんな苦労も、年寄りの冷や水をかかずに、徳川の天下を握る事が出来たのにと悔やんだ。「関ヶ原の戦い」は歴史に登らなかった。家康には自分を超えるbrainがまだその頃いなかったのである。
こうした各武将たちの思惑とは別に、光秀には自分の政治生命を賭けた課題が。いつも頭の中でよぎっていた。天正2年(1574)念願の土佐一国を平定した長曾我部元親は、天正4年になると伊予、讃岐、阿波へと侵攻し、四国統一を目指していた。戦いを有利に進めるため、織田氏と同盟関係を締結した。これは阿波や讃岐に本拠を置く、阿波三好家への共通した対策であった。これを踏まえて、信長も元親の嫡男に自分の「信」一字を送り、弥三郎から信親と名乗らせた。偏諱(へんき)を与え、信長も長曾我部氏を重視していたのである。この同盟関係を取次したのが光秀であった。光秀の家老、齋藤利三の兄・石谷頼辰(いしがいよりとき)の妹が、元親の正室であった関係から、取次としての活動が光秀に求められていた。織田と長曾我部氏との外交関係は、表面上にしても天正9年11月上旬までは友好関係にあったが、その後は断交していった。翌10年5月、信長三男信孝を大将とした四国討伐軍が編成され、信長による四国領有範囲の國分が提示された。この外交政策の転換は、信長が元親に四国における領土拡大を「手柄次第に切り取り候へと御朱印頂戴されたり」と功績次第としたのにも関わらずそれを覆し、元親には土佐本国と阿波南部半国のみの領有を認めた。これに対し元親は約上違反として当然の如く拒絶、織田軍は天正10年6月3日(変の翌日)を四国出兵とし進められていた。
元亀元年(1571)9月、叡山焼き討ちの後に近江坂本領の統治を任された当時は、光秀はまだ義昭、信長の双方に従属する家臣であったが、元亀4年=天正元年(1573)2月、義昭と信長の本格的対立となると、光秀は織田家家臣としての立場を明確にしていったが、義昭はそれ以降も反信長の中核であった。こうして次第に信長の信任を得た光秀は、近江坂本や丹波亀山の統治を任されていった。こうした状況の下、光秀が明智の縁を利用して展開した長曾我部氏との外交は、三好存保の信長への従属に伴う、阿波国の政情の変化によって、織田家vs長曾我部家の合戦へと展開していった。この展開は光秀や明智家にも、悲劇的な方向へと繋がっていった。個人が重視される現代社会とは異なり、当時は、個人が帰属する集団、家が重視されていた時代であった。個人の行為はそのままその人物が帰属する集団にも影響を及ぼした。つまり、信長の四国政策の転換は、光秀個人の発言の低下と共に、明智家における政治生命を失いかねさせた。そのため光秀は元親の説得に努め、信長にも四国出兵の取りやめを求めたが、この意見も無視され中国方面、秀吉の援軍に回されてしまい、.光秀の悲劇の連鎖が続いていった。
秀吉は「山崎の戦い」の後、京大徳寺で信長の菩提を弔うため葬儀を行い総見院を建立、信長の木造を安置した。木造は二体造られ、一体は荼毘に付されたが、安置されたもう一体は衣冠帯刀の座像で高さ3尺8寸≒115㎝で、表情はやや優しく出来ているという。京寺町の阿弥陀寺にも信長の木造が安置されているが、こちらの方が信長らしい表情をしているという。信長は自分に刃向かい侵そうとする者に対しては異常なまでの攻撃本能を現すが、内心の気持が満たされる女性を見つけると、自己の弱点をさらけ出し、もたれかかっていった。また、信長は自分の家族や側室たちに、台所用品の名称をつけ楽しんでいた。信康に嫁がせた長女には「五徳(火鉢の三脚)」日野城主蒲生定秀に攻められ落城した城主の妻を側室にし「お鍋」と名付けた。お鍋は亡き生駒御前吉野に似た、色白で艶っぽい女性であったという。この他にも、杓子、重箱、ひしお、たこなど様々な名前が付けられた側室たちがいた。気難しいと云われる信長が、垣間見せた人間らしい一面であった。
次回は家康が人生最大のピンチをむかえる「伊賀越え」です。「チーム江戸」しのつか
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