「本能寺の変」② 黒幕説

 「本能寺の変」で1番得をした男は羽柴秀吉である。天正10年(1582)6月備中高松城攻略中に「本能寺の変」の知らせを掴んだ。いち早く和睦に取り付け、備中高松城(岡山市北区)から山城国山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約58里≒230㌔を、約10日で軍隊を大移動させた。それは何故か?

 秀吉軍は天正10年3月、播磨姫路城より備前に入り、4月中旬には宇喜多秀家の軍隊と合流して総勢3万となった。備前、備中における毛利方の諸城を陥落させていった。秀吉は変の以前から、毛利陣営の重臣たちに対し切り崩しを行っている。また、その毛利水軍に帰属していた伊予村上水軍のリーダー、村上武吉・元吉父子に対しても調略を行ない、来島、能島村上氏を織田家へ帰順させている。備中高松の城主、清水宗治を攻めあぐんだ秀吉は、5月になって水攻めを決行した。この作戦は軍師竹中半兵衛の跡を継いだ、黒田官兵衛である。1里ほどの堤防を僅か12日で築造した。一方、光秀は5月5日、信長の命により家康の接待役を拝命したが、夜になると、秀吉の中国攻めを援軍するように書状が届いた。更に、17日になると饗応役を中途解任され、安土城から近江坂本へ帰り出陣の準備をし、丹波亀山へも戻り同じく出陣の準備をした。1日、夕刻、光秀は1万3千の手勢を率いて出立、未明老ノ坂(京都市西京区)を通過、桂川を渡った辺りで「敵は本能寺にあり」と、諸将に告げたとされる。2日、未明本能寺を包囲、前日、博多の豪商島井宗室らを招いて茶会を開いていた信長を襲った。夕刻、近江坂本城に帰り、諸方へ協力要請の書状を送った。3日、4日も坂本に滞在、近江や美濃の国衆に同じような書状を送った。細川幽斎・忠興父子、高山右近、筒井順慶からの助力が得られず、臨戦態勢が組めなかった。この事は、光秀にとって大きな誤算であった。安土城の留守役蒲生父子、信長の妻妾たちは、既に蒲生賢秀の居城日野城に退避していた。人質も取れず、味方の獲得も思うようにいかない3日間がロスとなって生じた。光秀のこうした状況は、周りの武士たちを日和見的態度にさせ、織田諸将たちの行動は、お互いに牽制するようになっていった。この間秀吉は自軍を引き連れ、着々と京へ戻っていた。

 6月2日「本能寺の変」当時、信長軍団の師団長たちは、光秀を除いて殆ど畿内を離れ、遠国で交戦中であり、畿内中心部は空白状態であった。家康は僅かな供廻りと共に堺(和歌山県堺市)辺りにいて、茶屋四郎次郎の知らせを聞いて動揺、先ずは「伊賀越え」が先決であった。柴田勝家は北陸戦線において越中魚津城(富山県魚津市)を攻略中であり、滝川一益は、上野厩橋(群馬県前橋市)で、北条氏と対峙していた。今回の中心人物となるべく、信長次男信雄は、居城の伊勢松ヶ城(三重県松坂市)にいたが、兵の大部分が信孝の四国攻めのため待機、3日に四国渡海の予定であったため、動きたくとも兵力がなかった。ここで何かactionをしなかったため、山崎の戦い後、信長一族は部下秀吉の陰に埋没していくことになる。こうした状況を情報網から察知していた秀吉は、光秀を泳がせておいた。光秀と組む織田の諸将は出てこないであろう。我が軍総勢3万に対し光秀軍1万3千、合戦となれば勝つ。秀吉は光秀の孤立化を図りながら、自分が光秀を討つ、亡君の仇を討って、織田政権の主導権を握る画策をした。光秀は秀吉の想定内の行動を、演じたに過ぎなかったのである。勿論、このシナリオは、秀吉の軍師黒田官兵衛が練りに練った傑作である。備中、美作、伯耆の三ヵ国の割譲と宗治の切腹を条件にした、信長亡き後の毛利軍との出来すぎた和睦の理由は、①毛利軍が長期の及ぶ対陣で、家中の消耗が激しく、加えて家臣たちの裏切りもあって、組織が崩壊寸前であった。②いずれ決着すべき合戦では、秀吉が勝利する可能性が大なるため、ここで秀吉に恩を売っていた方が得策であると考えた。しかし、この時点では実際のところ、信長の死を知らかったとされる。秀吉は毛利方をだましたのである。だが、毛利は以上の状況でこの戦いに疲れ果て、戦闘意欲が殆どなかったため、秀吉からの提案は渡りに船であった。また、基本的に戦国大名たちは、自らの領土拡大が基本路線で、上洛は次の次であったし、中央での出来事はどうでも良かったのである。たまたま、関ヶ原で負け、領土が大幅に削られた毛利藩は、島津藩、土佐藩と共に、幕末においてはPowerを発揮するが、当時義昭が期待したような体力を、毛利は持ち合わせていなかったのである。

 6月7日 27里≒81㌔を一昼夜をかけて、備中高松城から播磨の姫路まで行軍したという。しかし、疲労が重なり重装備をした兵たちが81㌔を一昼夜で駆け抜けたという記録には疑問が残る。秀吉など騎馬兵が姫路に到着したことを、軍団全体が到着したと、対光秀、周りの武将たちへの誇張、宣伝に使った。9日、姫路出発、その日のうちに明石到着。10日夜兵庫、11日尼崎に到着した。この頃までには大勢は秀吉側に傾いていた。6月12日、秀吉軍に四国出兵予定であった織田信孝と丹羽長秀らが加わり、山城、摂津両國の境山崎で対戦、この戦いに敗北した光秀は、山城勝竜寺に徹兵、翌13日、近江坂本へ帰る途中、醍醐、山科辺りで落武者狩にあい殺された。この変により、政治的中核を失った信長の息子たちは、秀吉・勝家らの抗争の中で、その存在意義を喪失していった。秀吉は積極的に情報戦を繰り広げ、多数派工作に努め、亡君仇討ちの大義名分の獲得に成功した。この結果、ひとり秀吉のみが台頭していったのである。

 次回は「本能寺の変」勃発の最大のきっかけとされる、信長の「四国政策転換説」です。

江戸純情派「チーム江戸」

ようこそ 江戸純情派「チーム江戸」へ。

0コメント

  • 1000 / 1000