「家康ピンチ」11本能寺の変とその原因

 天正10年(1582)3月、武田氏を滅ぼした信長は、家康の馳走を受けながら、冠雪の霊峰富士を眺めながら、安土城へ帰っていった。これが信長にとって最後の凱旋となった。4月21日、信長一行は無事に安土城戻った。翌5月になると、今度は家康が領地加増の礼の為、穴山梅雪を伴って出向く事になる。その接待役を勤めたのが光秀である。京や大坂の珍味を仕入れ、1回の食事で25種類の料理が出されたと云う。こうして張り切っていた饗応役の光秀に、急遽毛利と戦っている秀吉への援軍命令を出した。信長の人材登用は能力主義と云われるが、信長の猜疑心や個人的都合により、尾張出身者が優遇されていた。その結果、松永久秀、別所長春、荒木村重など、多くの外様たちは将来の展望が見えてこず、その結果離反に繋がっていった。決して能力を発揮する機会が、平等に与えられた訳でも、その能力が公正に評価された訳でもなかった。

 天正10年6月1日夜、丹波亀山を出発した光秀の軍勢は、中国地方ではなく京都へと向かった。信長も5月29日より僅かな供廻りを連れ、四条西洞院の本能寺(京都市下京区)に滞在していた。秀吉の毛利攻めを支援するためである。また、織田家を継いでいた嫡男信忠も、二条の妙覚寺(中京区)にあった。つまり、織田家の権力中枢の人物たちが、京都に会していたのである。光秀は「野望説」ともとれるが、これを好機とみなし「敵は本能寺にあり」と、矛先を毛利から主、信長に向けた。翌2日、卯の刻(午前6時頃)、1万3千の桔梗の旗印は、本能寺を取り囲み攻撃を開始した。光秀謀叛の報告を受けると、信長は「是非に及ばず」と、殿中の奥に退き自害、天下静逸を目前にして「下天は夢か」と49歳の人生を終えた。また、光秀迎撃のため、妙覚寺から二条御所に入っていた信忠も善戦虚しく自害した。26歳の若さであった。こうして、光秀は近江坂本へ進軍し近江国を制圧、6月5日、安土城へ入った。6月7日、安土城で光秀は、勅使として訪れた京都吉田社の神主、吉田兼見(かねみ)に、この謀叛に関する存分(理由)を語っているが、「兼見日記」には、この存分の具体的な事は記されていない。この為、光秀が何故「本能寺の変」を起こしたのか?その動機をめぐって、多くの議論が交わされてきた。この生死に関わる事態に、一番当惑したのが家康である。

 それでは何故光秀は政変=クーデターを起こしたのであろうか?先ず挙げられるのが、光秀の個人的な事柄に関する「野望説」と「怨恨説」である。「細川家覚書」によれば、光秀はこの戦いの後、天下平定の上には細川忠興や自身の息子に政務を委ると記している。つまり、(明智)家の政治生命とその格を護持する為に、本能寺の変を起こしたと証言している。光秀の野望説を伺わせる一文である。また、怨恨説については数多くの凡例を見ることできる。大勢の家来たちの前での罵倒、雑言。光秀が交渉先に人質として渡した母親が、信長が交渉先の人間を処刑したため、殺害されてしまうという事件も重なり、信長の冷酷非情な行動がそれに繋がったとされるが、これらは後世の編纂物からのもあり、検討を要する必要もある。また、光秀の性格からくる「信長非道阻止説」がある。元亀2年(1571)「叡山焼き討ち」にみられるように、非人道的な信長の行動に対し、光秀は批判的であった。叡山焼き討ちの後、光秀は近江坂本と亀山城をもつ丹波国(京都市中部から兵庫県北東部)34万石を領土としていた。信長は、秀吉との毛利攻めに当たり、光秀にこの両国に替え、出雲、岩見の二ヶ国を与えると伝えた「領土略奪説」である。見方によっては石高も増え、岩見では銀も採れ、実収も増える栄転であったが、これらはまだ敵方毛利氏の所領であった。つまり切り取り、勝利してからの話であった。わが国では国が狭く領土が限られてていたため、鎌倉幕府は公家たちの荘園を御家人へ、後に天下を握った秀吉は朝鮮に兵を出し、徳川幕府はなりふり構わず、大名家を取りつぶしそれにあてがおうとしている。

 光秀をこの作戦に引き込んだ黒幕は誰か?先ずは信長が、時の帝、正親町天皇に譲位を迫るなど、朝廷に深く浸食干渉した結果、光秀や近衛前久などの朝廷勢力が反発、遂行したという「朝廷陰謀説」がある。「足利将軍義昭陰謀説」光秀は元亀2年(1571)まで、義昭に仕えていた。天正元年(1573)信長に敗退した以降も、義昭は反信長の中核であった。天正4年、義昭・毛利輝元政権(鞆の幕府)が成立。天正10年2月、毛利から備後鞆の浦(広島県福山市)に亡命していた義昭を介して、土佐の長曾我部元親との軍事同盟への動きがあった。これに対し信長は、義昭を盟主とする「信長包囲網」の最終的解体をすべく、軍事行動を開始していた。その事が光秀に伝わり、本能寺の変への発生につながったとされる。つまり、毛利氏が元親経由で光秀と接触、それによって光秀が、毛利の力を利用しようとして、変に及んだとするものである。6月13日付けの、義昭が小早川隆景の重臣に充てた書状には、「信長を討ち果たす上には、入洛の儀急度(きっと)馳走すべき由、毛利輝元、小早川隆景に対し申し遣す条」としている。光秀は予め将軍義昭を推載して、変をおこしたのである。反信長勢力を集めるために、義昭を秦じて「室町幕府の再興」を企画したのである。光秀は主君殺しを正当化しょうとしていた事が伺われる行動である。中国にいた秀吉は、その事を独自の情報網を駆使して知っていたというのである。いよいよ、今回の事件で1番、漁夫の利を得た「秀吉陰謀説」である。


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