「家康ピンチ」10天目山の戦いと信長協奏曲
「天目山」は、山梨県甲州市にある1360mの小高い山である。天正10年(1582)織田、徳川、北条連合軍は、勝頼の領国である甲斐、信濃、駿河、上野へ侵攻を始めた。その前年の天正9年「三方ヶ原の戦い」の後、勝頼は信長の末の子を人質として受け取り、甲斐に迎えて養子としていた。その子於坊(勝長)を、実父信長のもとに返してきた。これは考え方にもよるが、相手方との緊張の緩和ととるか、断交ととるかである。天正10年、2月1日、信濃の名門木曽義昌が、武田に反旗を翻し連合軍側についた。これに応じた家康は、2月21日、浜松城を出て駿河国に入り、江尻城(静岡市清水区)の守将、穴山梅雪を味方に引き入れた。こうして、武田氏との最後の戦いが始まった。甲州、信濃へ入る道は多く、一般道は駿河口、ここは家康が先鋒を勤めた。信長は木曽口から、氏政は関東口から、森長近は飛騨口からそれぞれ侵攻していった。これら連合軍の動きに対し、武田軍の士気は上がらなかった。開城、内通、敗走が相次いだ。諏訪より軍を撤退した勝頼は、笹子峠で都留郡の豪族小山田信繁の反撃にあう。3月10日甲斐市川に至ったが、翌11日には、織田軍の滝川一益らに攻められ、勝頼に従う兵士はわずか41人となってしまっていた。天目山で自刃、信玄没後10年で甲斐源氏は滅亡した。この戦いでは、上野国で武田に属していた真田昌幸が、岩櫃城に迎える事になっていた。勝頼一行が無事入城していれば、戦上手な昌幸と組み、信長、家康の頭痛の種は彼らが死ぬまで無くならなかった筈である。
名門武田氏滅亡、「天目山の戦い」の敗因は、領国甲斐、信濃の武将や兵士たちが離反し去っていった事による。この理由として、㋑山地の多い領国で、急激な強兵策を図る事によって、武将たちや民衆への課役・税負担が重くのしかかり、常に不満が充満していた。その結果としての反動、謀叛、離散が繰り返されていた。信玄時代の過酷な仕切りに対する潜在的不満、反動が、勝頼の時代になって一気に噴出した。この事は2代目勝頼にとって大きな負担となっていた。㋺また、父信玄の存在が大きかったため、それを継承した勝頼は。父に負けまいとし、その存在を超えようとして、先代からの武将たちへの独断専横ぶりが目立つようになった。勝頼自身は武将としては、父に負けない働きぶりをみせていたが、部下たちからの支持が得られなかった。現代のオーナー社長が退陣し、その息子、2代目社長とその側近たちvs会社立ち上げ組の古い社員たちの、意思疎通が欠けた状態と共通する。2代目としての「自負」と、苦労を重ねてきた者たちの「経験」の対立である。勝頼自身も独断専行が目立ち、父の代からの老将たちとの意見の食い違いが目立ち、その結果彼らから見放されていった。こうした悪のスパイラルが武田軍を弱体化していった。「長篠の戦」で武田の騎馬軍団が、馬防柵へ遮二無二突撃していったのも、こうしたスパイラルへの、結果の行動であった。
戦後3月29日の知行割、論功行賞で、家康は三河、遠江、駿河三国を領有する大大名となったが、東部は北条氏、西部は織田氏の領土であり、これ以上の拡大は無理であった。当初は信長との対等な同盟国であった家康の立場が、信長が台頭し天下を伺う状況になるにつれ、家康は単なる織田方の、一人の大名の立場に落ちていった。そんなことには構わず、宿敵武田氏を滅ぼした信長は、家康の馳走を受けながら、4月12日冠雪の富士を眺めながら、居城安土への凱旋となった。大宮(富士宮)から東海道を上り、江尻、田中(藤枝)、懸河(掛川)から、天竜川は舟で渡り、浜松、吉田(豊橋)、池鯉鮒(ちりふ・知立市)へ至り、清洲へ。安土城(近江八幡市)へ凱旋したのは、4月21日であった。道中、家康は信長の安全を図るため、各地に茶屋や厩を設け、酒や食事を提供した。「信長公の御感悦申すに及ばず」と信長公記に記されている通リ、家康の心配りに大いに満足した。家康の律義ぶりが伺われる。旧暦3月29日から4月21日までの約ひと月弱、現代で云えば5月中旬頃、季節的にも恵まれた、信長にとって一番満ち足りた凱旋の日々であり、人生最後の栄光の旅であった。
この凱旋に先立ち、信長は信玄の菩提寺恵林寺に対し、勝頼の遺体を引き取り追善供養を行なったことなどを理由に、快川和尚以下寺中の人間約150人を山門に登らせ、周りに枯れ草を積み、火をつけ焚殺した。信長が叡山焼き討ちで見せた、残虐な行為の繰り返しに対し、「身体滅却すれば 火もまた涼し」と、泰然自若、猛火の中に消えていった。彼らの信長に対する精神的な反抗であった。この虐殺からわずか2ヶ月余後、信長自身の人生50年「下天の夢」は終る。
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