「家康ピンチ」9岡崎三郎四郎信康自刃
永禄3年(1560)5月「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれたあと、家康は正室築山殿(瀬名姫)、嫡男信康、長女亀姫を駿府城に残して古巣岡崎城へ入った。つまり、家康は敵となった今川氏の居城駿府城に妻子を残して、三河岡崎城に戻って自立した訳である。その後、家康は今川一族の鵜殿長照を攻め、その息子たちとの人質交換により、母子3人は無事岡崎城に入ることが出来た。しかし、娘、孫を助けようと今川氏真を制した、瀬名の両親関口義弘夫妻を、氏真は自害に追い込んだ。瀬名は家康が人質生活の身から、今日まで育てられた恩を忘れ、身の安全を保障してくれた今川家を裏切り、自分の家族を見捨て、両親まで死に追いやった夫家康を恨んだ。こうした背景が事件の一因とも見られる。しかし、現在自分は徳川家康の正妻である。実家をとるか夫をとるかは、その時代を生きた人間の考え方、環境にもよる。戦国時代、信長妹お市は「金ヶ崎の戦い」で、兄信長に急を知らせた例がある。また、幕末においては、天璋院篤姫と和宮が嫁ぎ先の江戸城を護るべく、それぞれの実家に働きかけた例もある。
瀬名姫の母は今川義元の妹、16歳の松平元信(家康)と駿府城で祝言をあげた。年上もしくは同年であったという。永禄2年(1559)嫡男信康をもうける。翌年、桶狭間の戦いとなる。同10年、信康は信長の長女徳姫(五徳)と婚姻、共にまだ9歳であった。元亀元年(1570)家康は浜松城へ移り、三河、遠江(静岡県西部)を支配、岡崎城を信康に預けた。信康は12歳で元服、岳父信長が加冠役を務め、9月3日に岡崎城に入城「岡崎三郎四郎信康」を名乗る。母と子の生活が始まった。母築山殿にしてみれば、嫁徳姫は叔父義元を討った仇敵であった。この姑vs嫁の確執は続いていく。
この事件の発端は、天正7年(1579)、徳姫が信康母子と武田家の関係を示す12ヶ条を訴状にして、父信長に送った事からに始まるとされる。信長にとってその内容についてはどうでも良かった。勢力を伸ばしてくる家康を牽制するため、自分の子信雄より器量が大きいとみられた、信康の将来を危惧した。我が亡き後織田家は、徳川家にとって代わられる。そうした心情を隠し、信長は家康に弁明を求めた。一種の内政干渉であり、個人的家族関係の侵害である。その使いとしてやってきたのが、家康家臣団№1であった酒井忠次である。忠次はいかなる理由であったか、信康を余り好まなかったとされる。それ故か、他の徳川家の事情からか、信康の件について信長に一切の弁明をしなかった。弁明をしないという事は肯定である。信長はそう判断した。「左様に父、臣下に見限られる上は是非に及ばず。家康存分次第の由」と返答した。また「当代記」によると、「信康は父家康公の命を常に違背し、信長公をも軽うじ奉られ、被官(家臣)以下に情けなく非道を行われるる事かくの如し」と信長の同意を得るため、忠次が出向いたとされる。信長方からの見方をすれば、その頃、織田家の家来たちに離反者が多く出ていたために、家康もその1人かと疑い、これは謀叛であると家康にその判断を任せた。信長は家康の自分への忠誠心を試したのである。「家康よ、俺に背いて息子を守れきれるか」。忠次を信康自刃の悪者扱いにしたのは、神君家康を嫡男殺しの汚名から解放するための、後世の創作であるとみられている。
また、個人的な信康の資質の問題だけでなく、徳川家そのものの問題も絡んでいた。嫁との確執もあり、築山殿は次第に武田家と通ずるようになっていたという。母と子が絡んだこの事件は、徳川家内の分裂事件へと繋がっていった。甲斐武田との攻防の中で、浜松家康と岡崎信康の双方の家臣団の間で、路線の対立が問題となってきた。天正3年(1575)「長篠の戦い」で家康・信康は一息をつく。この戦いでも、退去命令を出した家康に対し「戦場での父子の情は御無用」と、自ら殿軍を志願、見事に撤収、敵軍勝頼を感嘆させた。こうした働きがあったが、家康は徳川家の盟主として、徳川家の団結、結集を図るために、信長主導ではなく、家康自らの主導、自らの意思決定に基いて、我が嫡男信康を死に追いやったというのである。徳川家安泰、将来のために、反主流の当主、信康の抹殺を図らざるを得なかったというのである。家康は不仲な妻を、浜松と岡崎という中途半端な距離においたことが、母と生活する一人息子とも、意思疎通に欠けたと考えた。そのため息子からも疎遠にされ、その一派が出来上がっていった。家康はそうした孤独感を抱きながら、三河国を守り、家臣たちをまとめるために「泣いて馬謖を斬った」。天正7年(1579)9月17日、家康は当時21歳の風雲児信康を、二俣城に移しで切腹させた。これに立ち会ったのが二代目服部半蔵正成である。彼はその後出家して西念と名乗り、信康の魂を永代供養した。また、信康助命のため家康のもとに向かった、正室築山殿も家臣の手によって、浜名湖畔小薮村で殺害された。行年38歳、墓碑は浜松西来寺にある。当時、家康には秀康7歳、生後4ヶ月の秀忠の二人の息子がいた。二人は兄の事件によって人生が大きく変る。まだ、新生児の死亡率が高かった時代、何故この様な暴挙にでたのか?同盟国信長の命令であったのか?若しくは、徳川家を護るための、自らの苦渋の選択であったのか?
この事件の後遺症は続き、後年、ある時酒井忠次が息子の禄が少ない事を訴えた時「お前も息子が可愛いか?」と言い放ったという。何の弁護もしなかった忠次を恨んでいたという。また、「関ヶ原の戦い」においても、「信康が生きていれば、わしもこの様に苦労しなくとも済んだものを」と周りに愚痴を漏らしたという。妻や息子を守れなかったという、自己嫌悪、罪悪感が、家康の人生を引きずっていた。尚、嫁であり、妻であった徳姫は夫の自害後、美濃に戻った。天正10年(1582)「本能寺の変」後は、清洲の織田信雄のもとにいたが、慶長12年(1607)京都烏丸中御門の南に移り住み、寛永13年(1636)、織田、豊臣、徳川と権力者の盛衰を自分の目で確認、78歳で永眠。京都大徳寺総見院に石塔がある。夫婦の間に生まれた、福と国(熊)という2人の娘は、秀忠にとって兄の子であり姪にあたった。故に、徳川家の家族の一員とし養育された。いずれにしても、この事件、幕府の公式記録「徳川実記」でも、わずか数行で済まされているため謎が多く、不透明な部分が多い。
0コメント