「家康ピンチ」8設楽ヶ原の戦いと鉄砲

 天正3年(1575)5月21日早朝、織田・徳川連合軍約3万8千が、武田軍約1万5千に対峙、設楽ヶ原に馬防柵を構え、鉄砲3千丁を三段撃ち、武田の騎馬隊を撃破した。当時の火縄銃の射程距離は、約50~100mとされ、至近距離での闘いが繰り広げられた。天正10年(1582)3月「天目山の戦い」、甲斐の名門・武田氏滅亡。「死せる孔明生ける仲達を走らす」とはいかなかった。信玄の幻影は文字通リ幻として終わった。同年6月「本能寺の変」時代は大きく変わっていく。

 天正3年、勝頼は長篠城を攻略、一方、信長は石山本願寺との戦いに出陣、河内の三好一党を滅ぼしたが、余分な兵力はなかった。しかし、前回は対応の遅れで高天神城を奪われていた。今回もそうしているうちに、長篠城は陥されると判断、5月13日、岐阜城を出発、岡崎城に入って家康と作戦打ち合わせ、長篠城の西方2㌔の設楽ヶ原に馬防柵をめぐらした。この頃、家康方・奥平貞昌は必死で城を守っていた。信長は家康に、馬防柵と切り岸を築かせた。勝頼は5月20日、1万余の軍勢を率いて、長篠城の西を流れる川を渡り始めた頃、秀吉は陣払いをして、馬防柵の内側に逃げ込んだ。勝頼のおびき出しに成功した信長は、酒井忠次らに鳶の巣山に向かわせた。彼らは夜間に乗じて山を大きく迂回、21日朝、長篠城に突入、挟撃体制を確立、武田軍の退路を断った。この結果、勝頼は正面の敵を撃破する以外に、手立てはなくなった。連吾川の敵陣営はわずか200mの距離、勝頼が渡ってきた川は、岩場が多く淵が深く、おまけに川沿いの道幅が狭く険しかった。この道を退却すれば、追撃によって壊滅的打撃を受けることは明白である。勝頼は馬防柵の内側に構えた鉄砲隊に向かって、突撃していく以外に作戦はなかった。退路を断たれた帝国陸軍が、遮二無二にジャングルを突進していったように。勝頼はこの戦いで、山縣など有力な武将を失い、1万近くの将兵を死なせた。こうして兵たちの勝頼への信頼は、大きく失墜した。この戦いを契機に、信長、家康は東からの脅威を取り除き、天下静謐の動きを一段と加速していった。

 戦国時代の合戦は、緒戦に矢を撃ち合い、やがて槍による戦闘となる。敵が崩れると騎馬隊が突入、攻め崩すという戦法が通常である。鉄砲伝来以来、矢と鉄砲は一緒に撃たれるようになったが、鉄砲の威力によって戦い方が劇的に変わった訳ではない。武田軍の軍役員総数に対し、鉄砲の割合は弓の割合とほぼ同数約10,7%であった。一方、織田・徳川連合軍は、兵に対し鉄砲3千、さらに酒井忠次に500挺を預けていたとされるので、その割合はほぼ同数の10%、保有割合でみると両軍はほぼ同率であった。また、両陣営とも自己の旗本鉄砲隊をもつ一方で、臨時に鉄砲兵を集めていた。こうした臨時編成を「諸手抜」といい、毛利軍などもやっていた。では何故武田軍が連合軍の鉄砲に圧倒されたのか?「長篠の戦い」においては、連合軍の弾丸の量が武田軍のそれを圧倒した結果であった。武田軍は自己の鉄砲を撃ち尽くした処で、騎馬隊の突入となったが、武田軍の予想に反して鉄砲は撃ち続かれ、馬防柵と共に騎馬隊の前進を阻んだ。火薬や弾丸の量が、武田軍の予想を上回っていたのである。長篠古戦場跡から発掘された弾丸の「鉛」を化学分析すると、約7割が国産、残り3割が外国産であるという。その外国産のうちタイ産のものは、南蛮貿易によってもたらされたものであり、織田・徳川連合軍が使用したものである。7割の国産のものについては、徳川領奥三河など、自国の領内から生産されたものとされるが、少なくとも武田領には金山は存在したが、鉛山は確認されていない。

 戦国時代、海外貿易や海外交流によって、自国の勢力を伸ばしていったのは、西国大名たちであった。特に南蛮貿易は、ヨーロッパ諸国や東南アジア諸国から、硝石や鉛を輸入することによって、経済的にも軍事的にも多大な利益を確保する事ができた。特に硝石に関しては、国内での生産は不可能であったため、海外からの輸入に頼らざるをえなかった。九州の大名にキリシタン大名が多いのは、信仰の他にこのメリットが大きかったからだとされる。尾張の信長も、九州から瀬戸内、畿内の物流ルートにのるため、上洛して室町幕府を倒し、交易都市堺を抑え、南蛮貿易を掌握した。こうして、信長は西国大名としての顔を持つようになり、石山本願寺との戦いにおいては、毛利水軍、村上水軍、紀州雑賀衆に対し、大量の鉄砲を投入した。元亀元年(1570)9月の合戦には、両者の撃つ鉄砲の音が、日夜轟いたという。一方、東国に位置した武田氏は、伊勢商人の物流ルートを使って、西へのアクセスを試みたが、信長などの圧力によって、上手くは進まなかった。質の悪い銅銭を鋳潰して、弾丸に転用しようとしたが、鉛以外の金属は弾丸として生産しにくく、飛距離も短いといった欠点があった。大東亜戦争において、我国も物資の欠乏からこれを真似たが、皇国は惨敗した。

 鉄砲、火薬の不足は、訓練不足に繋がるが、冬が長く日照時間が短く、練習時間が思う様に持てない、寒冷地の高校野球部が、概ね西国のそれにハンディを負うのは否めない。環境不足からくる訓練不足は技量に直結した。(大谷のような例外もいるが)こうした事情は、天下統一を目指す秀吉と、北条氏との戦いにおいても同様であった。経済封鎖を受けた北条氏は、鉄砲玉の入手にも苦しんでいた。発掘される弾丸は、西日本では圧倒的に鉛製であったが、東日本では鉛の他に鉄(Fe)も使われていた。武田氏も北条氏も、領国の地理的位置からくる物理的ハンディが、自国の存続を左右した。個々の武将たちの戦略、器量や、将兵たちたちの精神力や武力では勝利は見いだせなくなっていたのである。アジア、太平洋戦争での日本軍の敗退がそうであったようにようにである。




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