2 江戸の物価、酒の値段と銭湯代

 江戸が1番江戸らしかったと言える文化文政期(1804~29)、江戸の職人を代表した大工の手間賃は銀で支払われていた。江戸前期は1日銀2~3匁、後期では3~5匁、幕末には5~6匁となった。これに昼間の飯代として、銀1匁2分が加えられた。当時の固定相場銀1匁=銭108円で換算すると648銭となる。これを1文≒¥25と、現代の価格に更に換算すると16200円となる。また、誰でも参入しやすかった棒手振稼業は、先ず魚や野菜など1日分売れる量を仕入れする。仮に600~700文で仕入れをすると、順調に売りさばいて明日の仕入れ代を残し、400~500文が懐に残る。そこから店賃を日割り計算した額を竹筒に入れ、カミさんに米、味噌代などの生活費を渡し、子供たちに菓子代などをあげ、夕方一風呂浴びると、手元に150~200文ほどが残る計算となる。酒代にするか、雨の日や体調の悪い日など働けない日のストックとするか、毎日の葛藤が続く。また、職人、商人たちだけでなく、農作物を栽培している農家にも貨幣経済が浸透、穀物や野菜の栽培に加え、付加価値の高い果物や初物を多く栽培して、現金収入を得る方策を取る農家が増えていった。そのために栽培技術の向上や、効率的な肥料の使用がなされた。九十九里浜で取れた鰯を油抜きして、天日干しした干鰯は金肥として、阿波の藍、紀州の蜜柑、泉州の木綿栽培などに使われた。このため戻り船の格好の積荷として、関西方面に搬送され、廻船業者を潤わせた。さて、江戸の幕臣、御家人の俸給は三両一人扶持、いわゆるサンピンであったが、椋鳥などと呼ばれた信濃からの出稼ぎ労働者、一茶などの俸給は3ヶ月で1分、年間4分とは薄給であったが、農閑期の喰い扶持減らしと、江戸での栄養補給が目的であった。また、衣食住付きの下女の年給は、江戸初期0,5~1,5両、中期になると2~3両、幕末は3~4両と順調に伸びていった。幕末4両を日割り計算すると、正月、盆を休んで現代の価格に直すと、1日当たり1700円ほどであった。

 享保11年(1726)諸国から、廻船問屋の手で江戸に入津した船の数は7424艘であった。そのうち灘、伊丹などからの下り酒は4斗樽で86万樽余、江戸近郊で醸造された地酒を含めると、江戸で消費された日本酒は杉の4斗樽で100樽を下らなかった。これは新川の江戸湊の酒問屋を経由した公式の数字であり、大名の下屋敷に運び込まれた4斗樽の数字は載っていない。ではその日本酒の価格の変遷を見てみると、江戸初期、摂津国鴻池が、酒4斗入りの樽を2樽一荷として、それを馬の背に乗せ江戸に下り、1升を銭200文で売った。その頃はまだ粗製の酒が多かったので、下り酒は飛ぶように売れた。現在でも灘、伏見の吟醸酒は人気がある。やがて樽廻船のような酒を専門に搬送する廻船も開発され、「守貞漫稿」では、慶安年間(1648~51)東叡山の古帳面に酒1升の値段は40文とありとしている。文化7年(1810)頃、大坂での極上酒1升が164文、その頃江戸では一般酒1升200~240文であった。如何に江戸の物価が高いかが分かる。同じく漫稿では文政(1818~29)の上級酒248文、居酒屋の酒1合20~32文(¥500~700)としている。天保(1830~43)の頃から安政年間(1854~59)には、1升350~400文になり、慶応元年には500~600文にもなった。1文≒¥25で換算すると、1升瓶1本¥15000もする高級酒となる。因みに元禄11年(1698)幕府は摂津などの蔵元に対し、1樽につき銀6匁の酒税を課したが、その後、酒問屋が幕府に納税する冥加金は、酒の値段に対して課せられた。従って酒が大量に供給されると、値段が下がり冥加金の収入も減少するために、米と酒の需給バランスをとるため、寒仕込みに集中させることが、幕府にとって好都合であった。

 天正19年(1591)の夏、伊勢与一が銭亀橋付近で開いた銭湯は、大人1人永楽銭で1文だった。約30年後の元和年間になると、湯銭も4~5倍に跳ね上がった。寛政改革で男女混浴が禁止された頃は、大人1人8文、子供は無料であった。「常盤ほど 連れて8文 湯屋ふくれ」義経の母常盤御前は、3人の子持ち鰈であった。文久年間(1861~63)になると12文となり、慶応元年には16文となった。それでも現在の価格で¥400、因みに東京都公衆浴場の値段は、2024年の時点で大人¥540也。埃ぽく蒸し暑い江戸の町で仂く職人たちは、それでも毎日のように入った。家が狭く火事が多く自家風呂がほとんどなく、薪代も高かった江戸の町では、銭湯は娯楽のひとつであった。また、江戸っ子の好物、二八蕎麦は寛文8年(1668)に始まるとされ、そば粉が8割、つなぎが2割からのネーミングだとされるが、小売価格が江戸の多くを通して2×8の16文であった事からにもよる。慶應年間(1865~67)諸物価がやたらと高騰したので、組合が幕府に掛け合い20銭としたが直ぐに24銭となった。「客ふたつ つぶして夜鷹 みっつ喰い」の川柳は、まだ二八蕎麦の時代に詠んだ句である。銭湯代が8文、立ち喰い蕎麦が16文と、4で割れる数字が多いのは、寛永13年(1636)幕府が、銅や鉄、銅に亜鉛を混ぜた真鍮などを素材にした4文銭「寛永通宝」を発行した事により、支払いしやすいように、商品の価格がそれに反映していったことによる。




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