第3章 江戸の金融 1 江戸人の金銭感覚

 倹約は初代家康よりの徳川家の代々の家訓、江戸幕府の政治的綱領であった。しかし、代々の将軍、加えて大奥に働く女性たちは、決してその家訓に沿ったものではなかった。むしろ真逆な生活を送っていた。幕府は大名、旗本・御家人に対して、また、本人たちの稼ぎの結果である、庶民たちの生活にまで法令を出して倹約を奨励した。その理由は治世下の国民の、身上以上の生活や贅沢は、幕府存続の根底である「身分制度」の崩壊につながったからである。江戸幕府草創期、三河の半農半武士を長く続けていた家康の家臣団が、「関ケ原の戦い」に勝利し、「大坂冬の陣・夏の陣」で実質的に天下を握り、江戸に政府と自分たちの住まいを構えたまでは良かったが、おいそれとは長年の生活習慣、ご先祖様から受け継いだDNAは変わらなかった。江戸に住んでも質実剛健、言い換えると質素倹約の生活習慣は続いた。天下人になった家康でさえ、苦しかった人質生活を忘れないため、寒い冬の季節でも足袋をはかず、冷たい板の渡り廊下を移動した。あかぎれをこらえて政務に邁進した。因みに家康がはかなかった三州足袋は三河の産である。

 新興の江戸幕府は、喉元過ぎれば熱さを忘れるで、月日の流れともに戦国気質もうすれ、気も緩み、上方の文化とも馴染むにつれ、太平の世に徐々に慣れ始めていった。こうなると人間本来持っている怠惰、物欲の生活にのめり込んでいく。戦国時代の環境がそうだったのか定かではないが、家族との繋がりや家庭の温かみが、太平の世になりそれが次第に当たり前になり、物が豊富に出回るにつれ虚栄という言葉につながり、節約、倹約といった言葉は、持つ者たちには死語になっていった。現代の政権では国債(借金)を次世代に回し、国の浪費、政治家の汚職には蓋をかぶせ、税金を取りやすい処に焦点を合わせて、党利を貪っている。一方江戸の歳入は既定のものであり、如何なる場合も増徴(増税)は認められなかった。江戸期を通して税率は五公五民か四公六民であった。これを覆すことは、百姓一揆につながり、収拾如何では藩の存亡にも関わった。このため藩の行政者は節約に勤め、なお不足分は地元の大商人、豪農たちに長期借財を頼みこんだ。「量入為出」という、歳入にあった歳出を藩会計役は任務とした。彼らがその打開策として考えられたのが「藩幣の発行」と「財政の倹約」であったが、藩幣の発行にはリスクがともない、倹約には限度がありその効果は期待できなかった。

 家康が残した遺産は400万両余あったと云われているが、その遺産は江戸中期8代吉宗の時代になると13万6千両余に激減、これはそれまでの歴代将軍の贅沢や無駄な寺社の造営などと、大奥の女性たちの贅沢の結果であった。併せて鉱山採掘技術が限界をきたし金銀産出量の激減した。その結果として金貨銀貨の流通は停滞、デフレ状態になり米価は暴落、幕府財政は逼迫していった。江戸時代の米価は米1石に対し金1両(銀60匁)が「定相場」、時代を通して米価安の諸色高が続いた。従って代々の閣老たちは大なり小なり「倹約」というお題目をあげて政治に臨んだ。倹約という文字に振り回されなかったのは、江戸が1番江戸らしかったという化政期(1804~29)に一介の武士から老中にまでのし上がった田沼意次ぐらいなものである。意次は現在でも横行している賄賂政治で、問題となる贈収賄じけんをを起こしたりした人物であるが、幕府の政策をそれまでの重農主義から重商主義に転換、印旛沼の開拓や北方領土との交易に力を注いだ。

 天正18年(1590)家康入府、慶長8年(1603)幕府は「貴穀餞金」政策を施行、「米」を経済の中心においた。日本の政治的、経済的中心となった江戸に住む、いわゆる江戸っ子たちは、将軍様の御威光を大事にしてか、朱に交われば赤くなったのか、元々、そのDNAが充分に体の中に育っていたのか定かではないが、類は友を呼び、「宵越の銭はもたねぇ」「いや持てねぇ」と、見栄を張り意地を張って「カネ」を馬鹿にしたのも、このせいかも知れない。人口の約半分を占めていた江戸っ子たちに対し、武士と呼ばれる階層は僅か2千人と、庶民層が絶対的に多かった大坂の町に住む、いわゆる浪花っ子たちは経済の根幹は米ではないことを充分に「百も承知二百も合点」して、「カネ」を大事にしていった。鎖国令の後、オランダ商館長カピタンに随行して来たケンペルは、江戸の物価が高い理由は、安逸をむさぼる役人や神職・僧侶が多いためだと指摘、消費するだけの人間、働かない、物を生産しない人間たちが、江戸人口の半分を占めていたからだと云った。同じく文政年間(1818~29)カピタンに随行して来たシーボルトは、江戸の物価は他の城下町に比べると5倍、大坂・京に比べても2~3割高であると指摘、買い叩きは当たり前であったが、下り物の価格は言い値で取引されていたと云う。「武士は食わねど高楊枝」「宵越しの銭はもたねぇ」のが江戸に住む人間たちのポリシー、空見栄と片意地がここでも発揮されていた。やがて江戸の町は中期になると100万の人口を抱え、文化文政期には120~130万人にも及んだ。そのうち約半分は町人たち、三代続いて初めて江戸っ子と呼ばれる資格をもつ人間は、そのうちの1割にも満たなかった。その1割にも満たない江戸っ子たちでさえ、長屋住まいから一戸建てへの自立は、夢のまた夢であった。仮に万が一持てたにしても、火事が日常茶飯事の江戸にあっては、瞬く間に憧れの住まいは灰塵に期した。これを充分に理解していた彼らは、毎朝お天道様が昇り、体を動かして働きに行きさえすれば生活出来たため、それ以上働いて稼いで、お金を貯める必要性がなく、健康維持に努めながら、勝手気ままな生活を楽しむことが出来た。ある意味では多少不安で刹那的ではあったが。その精神的圧迫を解消したのが、神田や深川八幡の祭であった。

 江戸は通して、幕府が政策をうたないと慢性的インフレ社会、基本的流通貨幣は金貨、銀貨、銭貨の三種類、これらの公定歩合を幕府は慶長14年(1609)金1両=50匁=銭4千(銭1文≒¥20)と定めたが、寛永2年(1625)には金1両=銀60匁=銭4千,明和年間(1764~72)には銭5千、幕末には、銭は1万(10貫文)にも高騰していった。公定利息は12~13%、質屋の利息は享保年間(1716~35)月々100文につき4文であったが、天保年間(1830~43)には100文につき1文に減らされている。また、人間が1年間食べる米の量は1石前後であるが、幕府はこの購入価格を1両とし、努力目標として定めた。米売買時の呼称には色々あった。相場師は金額(金貨)で百俵いくらと買い、米問屋は銀額(銀貨)で1石いくらと買う。武家は1両で米がいくらの量が買えるか、小売店は米1升をいくらで売るか、庶民は1番分かりやすい銭100文で、米がどれほど(容量)買えるか?これが問題であった。銭100文で米がいくら買えるか?それが貧しい人々の米の買い方であった。これを「百相場」という。その日暮し的な庶民にとって、その時の米の相場は死活問題であった。享保17年(1732)銭100文で白米1升4合買えたものが、翌18年には1升2合と、2合も高騰した。明和年間、天明年間は度重なる飢饉により、明和7年(1770)になって銭100文で白米9合、天明3年(1783)3月に持ち直し、まだ100文で白米1升1合買えた米が、6月に9合から7合、9月には5合5勺と「盗っ人おびただしく昼夜の別なし」(天明紀聞)の相場になっていった。滝沢馬琴は、「8月13日の夜大いに霜降り、大豆・小豆・稗・蕎麦などはこれに当り、種なしに罷り成り。誠に古今未曾有の大凶作、元来3,4年以来うち続く半作に満たない飢饉に御座候」と記している。天保8年(1873)銭100文で4合5勺、文久元年(1862)3合8勺、江戸幕府崩壊の慶應4年には1合1勺と、幕末にかけて米価は驚異を超え恐怖の価格に高騰していった。江戸時代も食べることに大変な努力を要した。  「チーム江戸」しのつか でした。  




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