「平成おくのほそ道ひとり旅」 ⑪鶴岡・酒田・象潟

 羽黒山三神参拝を無事に終えた昭和の旅人は、外人さんと同じバスで鶴岡市内に戻る。彼はこの後、出雲大社など西日本の神社仏閣を巡る予定だとか、我々日本人より、日本の文化に憧憬が深いと感心、これからも日本を宜しくです。気を付けていってらっしゃい、異邦人よ。別れを惜しんで、無料駅前レンタチャリへと急いだが、既に先客が待機。仕方なく有料レンタ(1時間¥500)を確保、市内散輪にいざ出発、空は青空日本晴、薫る風に吹かれて、まさにチャリ日和。「雪の降る町を」の歌が生まれた、みちのく山形庄内地方の中核都市鶴岡は、徳川四天王の一人、酒井家庄内藩14万石の城下町で、酒井家は江戸期を通じて、一度も国替えのなかった藩である。🌸の名所「鶴ヶ岡城」や、東北唯一の藩校「致道館」があり。明治36年に建てられた「鶴岡カトリック教会天主堂」には、黒い聖母マリア像が祀られている。また、地元出身の藤沢周平記念館や、「蝉しぐれ」「武士の一分」「たそがれ清兵衛」などのロケに使われた月山山麓の撮影セットなども見ることが出来る。譜代藩による江戸文化、北前船の交易による上方文化、地域性からくるみちのく文化が融合した町である。また周辺には、湯野浜、温海、由良温泉などにも恵まれている。

 ここで改めて芭蕉、曽良主従の足跡を辿ってみると、旧暦5月27日「山寺」から「山刀代峠」を越えて5月29日「大石田」に出て、「最上川」の舟人になった。6月5日「羽黒山」6日「月山」翌朝「湯殿山」から鶴岡へ、ここより川舟に乗り6月14日西廻り航路のハブ港「酒田」の湊へ下る。「暑き日を 海に入ㇾたり 最上川」 酒田は「北前船」で栄た湊町である。蝦夷松前で鰊や昆布を仕入れ酒田で売り、その売り上げで庄内米を買い付け、大坂で売るといったように、寄港地、寄港地で、仕入れと販売を重ね、往路復路と航海を反復、続けていったため、ひと航海で莫大な財を稼いだといわれる。「本間様には及びもせぬが せめてなりたや殿様に」と謳われる下地がここにあった。菱垣廻船、樽廻船における商慣習は荷主は船賃を払って、目的地までの輸送を依頼する。船主側はひと航海いくらの船賃で請け合う。この両者のメリット分を兼ね備えたのが「北前船」の「主」という事になる。時化に遭遇した場合のリスクを除き、相場がかみ合えば、儲けは莫大となった。この酒田の町を、市貸し出し(無料)レンタチャリで、黄昏せまる町を15分ほど日本海に向かってこげば、明治26年に建れた、酒田米穀取引所の付属倉庫「山居倉庫」が、日本海の夕陽を受けて待っていた。JR東日本の吉永小百合のポスターでもお馴染みの倉庫は12棟全て現役、日本海の西陽や寒風から建物を守っている、ケヤキ並木が美しく絵になっている。この他、旧本間家や酒田芸妓の茶屋町など見所満載である。

 昭和の旅人は、JR鶴岡から「羽越本線」酒田から象潟へむかう。芭蕉は「江山水陸の風光、数を尽くして、今、象潟に方寸を責ム。(色々な風光を見てきたが、今ここに象潟に心が責められる)酒田の湊より東北の方、山を越え磯をつたひ、いさごを踏て其際十里、日影ややかたふく比、汐風真砂を吹上、編め朦朧として、鳥海の山にかくる。松しまはわらうがごとく、象潟はうらむがごとし(象潟は己の薄命を恨んでいるようである)さびしさにかなしひをくはへて、地勢魂をなやますに似たり(この土地の様子は美人が心を悩ましている様である)」としている。「象潟や 雨に西施が ねぶの花」 西施は中国四大美女の一人、中国の美女を形容する言葉に、「沈魚落雁 閉月羞花」という言葉がある。西施は泉で水浴びをしていると、魚が恥ずかしがって泉の底に沈んだという。この例えに因み、「沈魚」は西施を指す。因みに「落雁」は王昭君、「閉月」は貂蝉、「羞花」は楊貴妃を指して言う言葉である。江戸では美人の事を「江戸小町」などと呼んが、中国では「○○西施」などと呼ばれた。「臥薪嘗胆」の言葉が生まれた古代中国、春秋戦国時代、越国の王・句践は、呉国の王・夫差に会稽山で破れる。その雪辱を何とか晴らそうと、西施を夫差の元に送り込む。句践のシナリオ通り、夫差は重臣たちの讒言を無視、西施に溺れ国政をおろそかにし破れた。𠮷原の花魁たちは城を傾けたが、西施は国をかたむけた。正に「傾国の美女」であった。その後の西施はどうなったであろうか。定かではない。芭蕉は象潟に咲く合歓の花に、西施の憂いに沈んだ姿態を重ねたのであろうか。

 象潟は八十八潟と因島を始めとする九十九島からなる潟湖で、松島と並ぶ景勝の地であったが、芭蕉たちが訪れた百ニ十九年後の文化元年(1804)の大地震で、地盤が2,4m隆起、潟湖は消滅、現在は碧い水田と松が繁る小島が昔の名残を留めている。漂泊の歌人、西行は象潟で「きさかたの 桜は浪に うずもれて 花の上こぐ あまのつり舟」と詠んでいる。いかにも桜を愛した西行の歌である。因みに、西行の死生観を詠んだ歌に、「願わくば 花のもとにて 春死なん その如月の 望月のころ」としている。近くには西行桜が咲く「蚶満寺」北方には象潟の地形が良く眺められる秋田富士「鳥海山」がそびえている。「おくのほそ道」発表後、松島と象潟の知名度は更に上がり、蕪村は芭蕉没後50年の寛保3年(1743)一茶は寛政元年(1789)子規は明治26年にこの地を訪れている。

 象潟の観光を担うのは、秋田県にかほ市象潟町字大塩越所在の、にかほ市観光協会である。江戸時代、にかほ市象潟町に藩政を敷いていたのは羽後本庄藩1万石の六郷家である。延宝5年(1677)六郷家が、浅草に下屋敷約1600坪を構えた際に、領内の「象潟九十九島」に因んで、下屋敷付近を「浅草象潟町」と名付けた。六郷家は地域貢献の積極的に取り組み、浅草寺や三社、付近の火事には家臣が駆け付けたり、普段の警備にも参加、また、祭礼に使う馬も六郷家が貸し出したりしていた。この辺りは台東区内でも唯一の三業地(料亭、待合、置屋)、見番には現在でも20軒ほどの料亭と数十人の芸妓が加入しているという。また、昭和41年まで象潟1から3丁目(現浅草3から5丁目)が存在していた。現在、町名はなくなったが、町会名として、浅草寺裏に三丁目象一町会、浅草象三町会などが残り、三社の花垣にもその名が刻まれている。こうした関係から、にかほ市と浅草の町会の交流が始まり、平成5年姉妹都市となっており、江戸からの交流が続いている。

 これより「親知らず」「倶利伽羅峠」金沢」「山中温泉」と越後路、北陸路となる。



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