「おくのほそ道ひとり旅」⑩最上川・羽黒山
いよいよ、18きっぷでゆく「おくのほそ道」折り返しである。芭蕉主従は松嶋から平泉を往復した後、現代なら仙台から「陸羽東線」小牛田から鳴子温泉で降り、徒歩30分ほどの義経が平泉へ向かった「尿前の関」を訪ずれ堺田へ向かった。ここより奥州山脈・山伐刀(なたぎり)峠12里(約50㎞)を超えて、ベニバナ(末摘花、江戸花暦・江戸城内堀編を参照)の産地・尾花沢へ入る。「まゆはきて 俤(おもかげ)にして 紅粉の花」。出羽国立石寺(山寺)は、元禄2年(1689)旧暦5月27日に登る。JR山寺は仙台から「仙山線」に乗り替え、「作並温泉」などを通過して、JR山形の少し手前にある。奥の院まで約1時間、芭蕉は自分を閑さの中に投げ出して、蝉の声を聞き「閑けさや 岩にしみ入る 蝉の声」と詠んだ。ここより、芭蕉は、大正浪漫を感じさせる「銀山温泉」の近く大石田から(現代ではJR「陸羽西線(おくのほそ道最上川ライン)」古口から徒歩約7分)、明治中頃までは重要な交通路(水運)であった「最上川下り」の舟に乗り、日本三大急流(富士川・球磨川)を体験。酒田14万石の城下町鶴岡から「羽黒三山」を登頂(6月5日)酒田、象潟と足を延ばしている。川下りで「五月雨を あつめて早し 最上川」詠んだ芭蕉は、当初「あつめて涼し」と発句した。川幅100~240m、水深12mの最上川は、「柳巻」と呼ばれる複雑な渦が巻き、一度溺れると浮き上がって来ない。「涼し」をこして「寒し」を感じた芭蕉は「早し」となったと推測される。
さて、平成の旅人は満を持して、10月15日、長距離夜行バスJR山形駅行に乗車。新宿南口バスタを23:50発、翌朝5:50着。今回は山形から平成「おくのほそ道」を追いかけることにする。昨晩のバスの疲れを癒すため、「奥羽本線」を少し戻って「かみのやま温泉」に向かう事にする。共同浴場の下山湯は、駅より歩いて7分程、上山城のすぐそば、営業時間6:00~22:00と都会のコンビニ並み、東北の温泉は♨も人間も暖かい。「奥羽本線」新庄までは、天童、東根、銀山と名湯が続く。ここで「陸羽西線」に乗り換え古口へと向かい、あつめて早しを体験、本日の宿、雨模様のJR「羽越本線」鶴岡へとむかう。ホテルの窓に打ち付ける大粒の雨の音で目が覚める。天気予報通リの展開。普段の品行の悪さがここに出たと反省、天を恨むな俺恨め♪と。せめて杉並木と五重塔だけでも見ようと、ベットに潜り返したのが、深夜の1時頃。鶴岡駅前発7:52発の庄内交通バスに乗るため、6時起床、何となくカーテン越しの外が明るい。覗けばなんとブルースカイ、「やっぱ日頃の行いがいいか」と一人ゴチて、朝飯バイキングをしっかり頂き、いざいざ出発進行。羽黒山の登山口となる随神門へはバス約40分、ここから杉並木の参道を約2㎞の行程である。車内で若い外人さん♂と知遇になる。オハイオ州から来たという。「今日youは月山に登りますか?」「Oh Noさんです」羽黒山で目一杯のおじさんに、そんな質問無理ですよ。結局山頂で確認した処によると、月山は既に初冠雪を見たということで、登山は禁止であった。夏はチングルマやニッコウキスゲが咲き誇るが、スキーシーズンは4月から7月、冬ではなく夏スキーとなる。
「羽黒三山」とは、現世の幸せを祈る「羽黒山」、死後の浄土を祈る「月山」、功徳を重ねて再び生まれ変わる事を願う「湯殿山」の総称。開山は凡そ千四百年ほど前、第三十ニ代崇峻天皇の皇子である蜂子皇子が、三本足の霊鳥に導かれ羽黒山(414m)に登拝、羽黒権現を感得し山頂に神社を創建、次いで月山、湯殿山を感得、三山の開祖となった。随神門から少し降りると神橋、もうそこは樹齢350~500年の杉木立が林立する荘厳な世界、昨夜からの雨で杉の緑が一層の際立ちを見せている。ミュシュラン・グリーンガイドジャポンで、三星を獲得している表参道は全長約2㌔、一の坂、二の坂、三の坂、全2446段の長い階段が続く。三途の川(早く体験していこ)を渡ると、高さ29mの国宝・五重塔が杉木立を従えて凛と建っている。平安時代平将門の創建と伝えられ、現在のものは約600年程前に再建された塔である。夜間はライトアップされるという。是非次回は、熱燗持参で夜の五重塔の対面したいものである。芭蕉が長逗留したという南谷史跡を過ぎ、姫神社を参拝すれば、神仏習合時代の名残を残す重文「三神合祭殿」である。昔から月山、湯殿山は、冬季豪雪のため参拝出来ないことから、ここ羽黒山に祀られた。元禄の芭蕉は、旧暦6月8日、羽黒山の宿所から歩き始めて、月山約八里(約32㌔)を、まだ陽の高いうちに頂上につき参拝「雲の峯 幾つ崩れて 月の山」。この日は頂上付近の小屋に泊まり、翌日湯殿山神社に下り参拝、また月山に引き返し羽黒山に戻っている。湯殿山は出羽三山の奥院「語るなかれ 聞くなかれの」禁断の聖地である。「語られぬ 湯殿にぬらす 袂哉」この日は約十五里(約60里)の山路を歩き抜いている。曽良は「甚労ル(はなはだつかる)」と記している。このことから、生まれが伊賀上野であることなども踏まえ、芭蕉は忍者であろうとみる人もいるが、江戸時代、東海道を京まで約2週間で男も女も下った。平均1日40㌔前後、羽黒神社の人々が、芭蕉の月山・湯殿山行脚を止めなかったのには、当時としては大丈夫だと考えられた故である。
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