「家康ピンチ」5叡山焼き討ち ①
平安京の北、鬼門を護る「比叡山延暦寺」は、平安初期延暦7年(788)、標高848mの比叡山山頂に創建された。比叡山延暦寺は、南都の興福寺に対し北嶺とよばれ、開創以来、高野山金剛峰寺と並んで、平安仏教の中心寺院となっていった。延暦寺とは、比叡山の山上から東麓にかけ位置する、東塔、西塔、横川など三塔十六谷に所在する150ほどの堂塔の総称であり、天台宗総本山寺院である。比叡山を開いたのは、伝教大師最澄である。最澄は「どんな悪人でも往生させ、浄土に迎えてやりたい。それが阿弥陀の本願である」という。その教えを継いだ法然上人は、古い仏典を超えて、念仏ひとつで十悪五逆の悪人でさえも救われると説いた。国家鎮護の道場として栄えた延暦寺は、数々の名僧を輩出した。天台宗の基礎を築いた円仁、円珍を始め、浄土宗開祖の法然、浄土真宗開祖の親鸞、臨済宗開祖の栄西、曹洞宗開祖の道元、日蓮宗開祖の日蓮などが若い日に延暦寺で修行をした。延暦寺は後に円仁派(山門派)と円珍派(寺門派)に分かれ対立、円珍派は山を下りて、延暦寺の別院であった園城寺(おんじょうじ)=近江三井寺に入り独立した。以後、対立、抗争を繰り返し、こうした状況下から僧兵が現れてきた。彼らは自らの意にそぐわない事が起きると、強訴という手段で、時の権力者に対し、自らの主張を通してきた。こうして延暦寺は、その権威に伴う武力を備え、また物流を握ることによって財力を保有、権力者をも無視出来る、一種の独立国(寺社勢力)を形成していった。源平を手玉に取った大天狗、後白河法皇でさえ「賀茂河の水 双六の賽 山法師 是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆息した。彼らに加え、浅井・朝倉、近江、甲賀の六角氏、摂津、河内の三好三人衆、石山本願寺の一向宗や近江、伊勢、尾張の門徒たちに、自己の政治権力を制限されていた室町幕府の将軍義昭などが、当面の反信長勢力であった。彼らが緊密に連絡をとり、対信長包囲網が次第に完成しつつあった。
比叡山は北陸路と東国路の要所、上洛を果たす者にとっては欠かせない軍事拠点であった。寺院は荘園の経済力によって、地方の大名を圧倒するほどの実力を備え、中でも最強の勢力を保持していたのが延暦寺であった。永禄12年(1569)延暦寺は、信長に占拠された山門領の奪回を朝廷に訴えていた。当時の座主坊は正親町天皇の弟である。尾張、美濃と京を結ぶ重要な要所にあたる山門領を、延暦寺側に認めることは、信長にとって不利な要件であった。「神明の加護にあらずんば 何をもってか王法をつながん。仏法の威光にあらずんば 何をもってか武運を保たん」と、朝廷は延暦寺側の主張を認め、信長に山門領の返還するようにと綸旨を出した。王法と仏法の観念は、奈良時代の7th半ばから始まり、平安初期の10thまで続いた「律令国家」の時代に生まれた。「律」は刑法、「令」は行政法で、律令国家とは、古代中国、隋や唐の時代に完成した集権国家の形態である。仏法が王法(国家)の安泰を祈ることで国家が栄え、それによって仏法も栄えるという論理である。信長が目標とする「天下布武」は、古代勢力を保持している宗教の実力を排除する事で、それまでは、その確立は不可能であった。「北嶺破滅に及ばは 朝廷たちまち退転すべく。且つは国家安寧のため 且つは武運長久のため」と信長は考えた。浅井・朝倉との講和に際し、調停者としての天皇からの改めての下命には、信長も従わざるを得なかった。
当時の比叡山延暦寺は、山上の堂塔、坊倉は荒れ果て、僧の多くは山麓の坂本に住み、修行を怠り乱行に耽っていた。しかし、京の市民、公家たちは、鬼門に位置する王城鎮護の延暦寺があってこそ、朝廷、京の町は安泰であると信じていた。一方信長は、比叡山を焼き討ちにするのは、腐敗堕落した生活を送り、朝倉義景と与し京都を戦乱に巻き込もうとした悪僧征伐のためで、天台宗の教義、寺院を破滅させる意図はないと、寺門派に伝えていた。「信長公記」には、「天下の嘲弄をも恥じず 天道の怖れも顧みず 淫乱、魚鳥を食し 金銀賂に耽り 浅井・朝倉を率い 欲しいままに相仂く」としている。しかし、当時の社会、一般市民は、比叡山のような聖地は、世俗の及ばない仏の領地であると信じていた。信長は先ず、浅井・朝倉を滅ぼし、延暦寺を孤立させた上で、一向一揆に全力をあげたかった。反面、元亀元年(1570)の家康は、自国の経営に加え、3度信長に協力し多忙であった。4月の敦賀攻め、6月の姉川の戦い、その後の浅井・朝倉の比叡山対陣では、近江に1万の兵を出し、信長の美濃、尾張の往還を確保した。信長はこうして軍事行動を起こす度に、家康に協力を要請(強制)した。
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