「家康ピンチ」5叡山焼き討ち➁
元亀2年(1571)8月17日 信長は尾張、美濃の精鋭3万を率いて、岐阜城を発ち北近江に進攻、南近江の諸城を陥落させ、琵琶湖南端の瀬田から三井寺に入った。戦評定で信長は「坂本より山上を焼き上げ、根本中堂、山王二十一社はもとより、霊社、僧坊は一宇も残さず焼き尽くし煙となせ。また、山下、山頭の僧俗は老若男女を問わず、撫で斬りといたすべし」と命令した。叡山は信長にとって殲滅させなければならない軍事拠点であった。延暦寺と一向宗は教義の上では相容れず、両者が同盟して、信長に向かってくる恐れはなかったが、長嶋一向一揆での敗退、信玄三河入りにより環境は悪化、延暦寺の件は急がねばならぬ懸案事項であった。信長は園城寺に諸将を集め「これより総勢をあげて坂本に向かい、夜にかけ、叡山を取り詰め焼き尽くすでや」と宣言、9月11日、坂本に向け前進を始めた。これに対し延暦寺側は、協議して取り急ぎ黄金500枚を、信長本陣に差し出し、征伐を免れようとしたが、信長は完全にはねつけた。延暦寺側の無力化を狙う信長にとって、こちらに属さない限り、比叡山延暦寺の徹底的破壊、抹殺を意味した。同12日、坂本、堅田周辺に火を放った。「山下の老若男女、右往左往に廃忘を致し、八王子山に逃げあがり、諸卒四方よりかき声をあげて攻め上がる。僧俗、児童、智者、上人一々首を斬り、信長公の御目にかけ」と信長公記は記している。この戦いでの死者は、公記では数千人、宣教師ルイス・フロイスは約1,500人、言継卿記によれば3~4千としている。
僧侶も町の人間たちも難を逃れるため、日吉神社の神体山である八王子山頂の奥宮堂宇に逃げ込んだ。その数千人余。坂本の町にいた140~150の僧たちは、必死の覚悟をしていた。坂本の町が白煙に包まれたのは、陽が登って間もなくであった。「火をかけよ 一物も残さずに灰となし 焼き清めるのだ」根本中堂、大講堂、阿弥陀堂戒壇院,護持院などの伽藍が火を上げ、「顕宗秘伝」「聖教」「帝都累代記録」などの貴重な文書が灰塵と化した。逃げまどう事を諦めた僧たちは、「鎮湯爐炭清涼界」と唱えつつ、燃え盛る大伽藍に飛び込み、仏像と共に焼かれていった。信長は9月15日までの4日間、比叡山の伽藍を焼き尽くし、二条城に入り義昭に焼き討ちの一切を報告した。「すべからず堂塔を焼き捨て、僧俗男女凡そ4千人ほどを伐ち捨てました」義昭はもはや比叡山に、浅井・朝倉が進出する望みが消えたと、恐怖と落胆を露にした。大の石山本願寺でもこの報を聞き「信長が仕業は無道極まりなく、人に非ず天魔の仕業だ」とし、信長に対する敵対心を改めて抱いた。延暦寺、日吉神社は消滅、寺領、社領は没収され、光秀や勝家に分け与えられた。光秀は叡山坂本に新たに坂本城を築き、居城とした。
一方、逃げきった者たちは、信玄に庇護を求め、信玄も延暦寺の復興を企てたが、元亀4年(1573)病没。また、王親町天皇も百八社再興の綸旨を出したが、信長に握り潰され、再興の動きは停止された。この恨みから、本能寺の変の黒幕説に天皇が登場してくる。この事件後、朝倉義景と信長は和睦、12月15日未明、浅井・朝倉勢は三尺余の雪の中を比叡山を下り退陣していった。天正元年(1573)7月信長、将軍義昭を追放、室町幕府滅亡。8月、一乗谷は信長に攻め入られ落城、義景自刃。ついで小谷城も陥落、浅井長政自刃、お市の方と浅井三姉妹は叔父、信長に引き取られていった。天正12年(1584)叡山焼き討ちから13年後、僧兵を置かないことを条件に、秀吉によって山門再興が許された。また、20thになって長く仏敵と見做してきた天台宗も、「信長は後世の僧たちにとって、一大善智識の一人であったと思うべき」と、焼き討ちを一部肯定的に評価する向きも現れてきた。これは「叡山の僧は修学を怠り、一山相果てるような有様であった」(多聞院日記)事に対する粛正を評価したものであり、4千人余もの逆殺を肯定したものではないことは明らかである。また、信長の天下静謐がなかなか容易ではなかったのは、京への通過点でもある、近江を完全に掌握出来なかったからである。「惣」と呼ばれる郷村、物流を通して緊密な連絡が捉えていた地域社会を完全に支配しなければ、近江を支配する事は出来なかった。支配とは単なる軍事的物理的支配ではなく、人心の掌握を意味する。信長はこの点の感覚に欠けていた。「信長も 今日は比叡か 長浜か」裏切り、叛乱を重ねられて、信長は琵琶湖を走り廻った。
比叡山延暦寺へは、JR京都からはバス若しくは京阪出町柳から、叡山電鉄で八瀬比叡山口へ行き、ケーブル、ロープウェイで山頂へ行く。JR湖西線坂本からは穴太衆(あのうしゅう)が積んだ石垣の町、ケーブルを利用すれば根本中堂近くに着く。お勧め本は「親鸞」五木寛之、「下天は夢か」津本陽など。次回は年代に従い、元亀3年(1572)「三方ヶ原の戦い」天正3年(1575)「長篠の戦い」同10年(1582)「天目山ノ戦い」と、武田氏興亡の歴史を追いながら、家康ピンチ「信康自刃」をお届けしていきます。
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