「家康ピンチ」 4姉川の戦い

 「姉川の戦い」から、「叡山焼き討ち」に続く信長の台頭。永禄3年(1560)「桶狭間の戦い」の後、美濃を攻略した信長は、同11年(1568)近江北郡を制圧していた浅井(あざい)長政に、妹、市を入興させ、浅井の援軍を得て、近江守護職六角氏を撃ち破り、将軍義昭を奉じて上洛を果たした。ついで、元亀元年(1570)反対勢力を殲滅するため、越前の朝倉義景に攻め入り、天筒山城、金ケ崎城(敦賀市)を落として侵攻しょうとした矢先、同盟軍であるはずの長政が、長年の関係から朝倉側に加勢、織田軍の背後に迫ったのである。信長は浅井、朝倉両軍に挟撃される形となった。危険を感じた信長は、秀吉を殿軍(しんがり)に残し「朽木越え」をして、京へ逃げ帰った。その時の供は僅か10人余であったという。この合戦に信長からの参戦を要請された家康も陣中にいた。しかし、信長は秀吉と打ち合わせ後、そのことを家康に知らせずに逃げ帰ったのである。「家康又もやピンチ」、家康は陣中の置き去りにされたのである。ひどい話である。同盟軍を見捨てたのである。大東亜戦争でも、大本営の参謀たちが、現地軍の要望を無視、食糧、武器、弾薬、兵力を補充せず、机の上で遮二無二、進行を進め、結果は歴史が示す通リになった。話を「姉川の戦い」に戻すと、家康も殿軍に加わり、敵を振り払いながら、何とか自国へ戻ることができた。俗に言う「金ヶ崎の殿(金ヶ崎崩れ)」である。「三河物語」によれば、この時信長は「家康を跡に捨置給いて 沙汰無に宵の口に引取せ」というように、撤退の知らせもせずに、家康を陣中に置き去りにしたのである。このように信長は、同盟軍である家康に、常に先鋒、殿軍と危険な戦いを振って犠牲を強いてきた。こうした一連の信長との関わりから「本能寺の変」では、家康黒幕説が登場する所以となっている。

 2ヶ月後の、元亀元年6月21日、信長は報復のため、浅井・朝倉に戦いを仕掛けるため、小谷城(おだにじょう)に向かった。「姉川の戦い」である。同年9月には「石山合戦」11月には「伊勢長嶋一向一揆」がおこる。小谷城は日本5大山城のひとつで、伊吹山山系の標高495mの小谷山の頂にある。山麓に越前と美濃を結ぶ北国脇往還が走り、南に中山道、西に北国街道が走っていた。天守閣からは、琵琶湖が見渡せる絶好のロケーションである。元亀・天正の戦いの中で廃城、その後北近江の拠点は、秀吉が築城(建築資材は小谷城のものを移築)した、長浜に移っていった。城址は長浜市湖北町、JR「北陸本線」河毛から徒歩約四半刻にある。「姉川の戦い」という呼称は、徳川氏の呼び方で、織田、浅井側は「野村合戦」朝倉側は「三田村合戦」とそれぞれ布陣した土地の名で呼んでいる。織田・徳川聨合軍vs浅井・朝倉連合軍双方1万3千前後とほぼ拮抗(うち徳川軍3千~5千)、姉川を挟んで激突した。越前朝倉勢は小谷城の南方に集結、浅井勢も山を下り合流、姉川を挟んで対峙した。河原は当時広大で、おおかたは小石が敷き詰められていた。真夏の季節、伊吹山からの流れは枯れ、川床の大半は露であり、水深は浅い所で人の踵、深いところでも三尺(一尺≒33㎝)ほどであった。家康は信長から加勢として、千人が添えられ朝倉軍の正面に布陣した。敵方は魚鱗の陣形をとって突入してくるとみた家康は、縦長に陣形を配置した。合戦は夜明けと共に開戦、朝倉勢は姉川を渡り、徳川の陣に攻めかかり、先陣酒井忠次の陣と激闘になった。一方、織田軍は午の下刻(午後1時)ころには、浅井軍に13陣のうち11陣まで撃ち破られていた。しかし、この頃になると徳川軍と渡り合っていた朝倉軍に、勢いが次第に鈍くなってきた。これを機に家康は榊原康政に、崩れかける気配をみせた朝倉勢の右翼から、横槍を入れるように命令した。この為戦況は急速に変化、姉川対岸に進撃をしかねたいた朝倉勢は動揺して崩れた。

 密集隊形で移動している軍兵は、左方から攻め込む敵には、槍や鉄砲を向けて対応できるが、右方向から馬を入れられると、左手を前に右手を後ろにして持っている獲物を使う事が出来ない。潰走する朝倉勢は二里余りも追撃され、北方の山地に逃げ延びていった。八つ半(午後3時頃)浅井勢の後方で後退の法螺貝が吹き鳴らされると、屈強な武将を失った浅井軍は小谷城へ逃げ帰っていった。夜がきて、姉川の水は真っ赤に染まり、両岸には人馬の死骸が折り重なり、野の草花も血に塗られて、風に揺れていた。後にこの土地は「血原」と呼ばれるようになった。家康の作戦、奮戦でからくも勝利を得た織田・徳川連合軍であったが、家康は、今度の戦いで遅れをとるような事になれば、信長から見切りをつけられるであろうと予測した。敦賀で撤退を唱えた己に不快感を抱いたと感じた。信長という人間は、同盟を結んでいる相手に対しても、己(信長)のために全力を挙げて戦わない限り、疑いを深める。激すれば三河に乱入してこないとも限らない人物であった。家康は信長という爆弾(ピンチ)を常に抱えていたのである。

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