「家康ピンチ」3石山合戦
<石山合戦と大坂本願寺> 家康は「三河一向一揆」を機に、領内の反対勢力を鎮圧、三河における確固たる覇権を握っていった。権力側と宗教集団との闘争はこの後も続き、元亀元年(1570)「石山合戦」、同2年「叡山焼き討ち」、天正9年(1581)「高野山僧侶千余人殺戮」、江戸時代に入っても、寛永14年(1637)「島原の乱」と続いた。「天下布武」目指す信長は、永禄11年(1568)足利義昭を擁して上洛、没する天正10年(1582)までの15年間、将軍を中心とした「天下」の秩序を回復しょうと努めた。戦国時代の「天下」は、室町時代が支配していた京都を中核とする世界で、将軍の管轄地域・畿内を指している場合が多い。信長が言う「天下布武」とは、将軍を中心とした畿内の、平和で安定した秩序の回復「天下静謐」であった。太田牛一は「信長公記」で、「信長公天下15年仰せ付けられ候」「信長京師(けいし=京都)鎮護15年」と記し、信長は15年天下を治め、それは京の都の鎮護だとしている。信長は当初、天下静謐を実現、維持するために、義昭に協力したが、義昭はその責任を怠り、反信長勢力と結びつき、天下の静謐を乱そうとした。為に、信長は17箇条の意見書を出し、調整を試みたが、元亀4年(1573)遂に義昭を追放、室町幕府を緩やかにそのまま横すべりさせようとした。信長の天下静謐の戦いが、結果的に己の支配地の拡大になったと、信長はそう言いたかったかもしれない。天下静謐を乱す一方の相手は、巨大な宗教集団、大坂石山本願寺派であった。
「本願」とは、全ての衆生(この世に悩み苦しむ人々)を平等に救い、浄土に生まれ変えさせるという、阿弥陀の誓いであり願いをいう。本願を信じて念仏すれば、明日が明るく思われる。明日が明るければ、どんな人でも、今日生きていく望みが生まれる。念仏すれば、どんな十悪五逆の悪人でも救われる、という教えである。僧としての戒を捨て妻帯し、世間の根底に生きる人々と交わり、俗中の聖(ひじり)として生きていた親鸞の考え、教えであった。「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」ただ仏の本願による、念仏によってのみ救われる「他力本願」である。信じるのは物事でなく人であるという、その人を信じる故に、その言葉を信じるのだと親鸞はいう。その人・親鸞が言った言葉故に、一向門徒衆は極楽浄土を信じて信長と戦った。死ぬことを恐れぬ人間と戦う事ほど恐ろしい事はない。相手を殺さない限り自分が殺されるからだ。
本願寺の法主は本願寺の門徒なら誰でも資格がある訳ではない。親鸞の血筋をひく本願寺一族に限られていた。本願寺法主の命令による一揆蜂起は、通常の戦国大名が、せいぜい数か国の範囲にしか拡がりをもたないのに対し、はるかに広域に拡がる可能性をもっていた。また、動員力に関しても、門徒たちの会議という、一見リベラルな過程を経ながらも、個人個人の同意が取り付けられ、寺側の監視のみならず、互いの相互監視によって、背き難い規律を生み出していった。更に門徒衆個々の行動を規制した大きな要因は、門徒たちの死後の運命であった。死んで「極楽浄土」にいけるのか、規律を破ったら地獄へ墜ちるのか、彼らにとってはこちらの方こそが大問題であった。当時、「一向一揆」の頂点に立つ法主は、門徒たちを地獄へ墜とす力をもつと信じられていたのである。
当時の大坂湾(難波海)の海岸線は、現在よりはだいぶ内陸部であった。木津川の河口に築かれた本願寺側の「木津砦」は、地質学的には「難波砂推上」にあり、現在の大阪市西成区辺りである。「上町台地」上に築かれた「大坂本願寺(大坂城跡)」の南西部におかれていたのが、信長側の「天王寺砦」である。その西方半里(約2㌔)の距離に木津砦があり、大坂湾に接した唯一の本願寺側の砦であった。この海辺の砦を目指して、西国の門徒たちは、瀬戸内を自前の舟を仕立ててやってきた。紀州雑賀衆の頭目・鈴木孫市は第十一世法主顕如の問いに思考した。紀州は一向宗本願寺派の中興の祖・八世蓮如が布教に赴いて以来、一向宗の拠点のひとつとなっており、顕如は紀州門徒約2万人に対し援軍を求めていた。中でも孫市の率いる鉄砲隊に期待していた。鉄砲は天文12年(1543)ポルトガルから種子島に伝来し、それを翌年根来衆が持ち帰ったと伝えられているが、一方では倭寇によって、波状的に日本各地にもたらされていたともいう。また、他にも雑賀衆のうちの湊衆(紀州沿岸部の人々)は、薩摩と交易をもち、鉄砲を取得していたともいわれている。雑賀衆イコール鉄砲衆というイメージになるが、これは戦国時代の紀州は大名が育たず、中小の土豪層が台頭していたため、彼らは束縛される事なく、自由な風土を作り上げていったことにもよるという。宣教師ジョアン・フランシスコの報告では、本願寺には8千挺の鉄砲があったという。
問題は寺に籠城する一向衆約5万6千人分の兵糧であった。1年分は10万石の米、この大量の米をどう本願寺に運び込むかであった。楼閣から見渡せる大坂湾を眺めながら、孫市は顕如に、備後鞆の浦(毛利領・福山市)にいる義昭を使って、毛利水軍を動かし、先ず瀬戸内から大坂湾木津砦に兵糧を入れ、ここから北方に連なる本願寺派の三津寺砦、難波砦などを経由、大坂本願寺内へ運び込めばいいと提案した。では実際誰がそれだけの米を運び込めるのか?この時代、これほどの大船、船数を有する集団は、村上海賊を除いていなかった。
「石山合戦」は、元亀元年(1570)9月、信長軍の摂津国野田砦にこもった、三好三人衆らを排除すべく陣を張った際、信長が同時に大坂本願寺も我が物にと企んだことから始まる。以後、2回に及ぶ和睦を経て、断続的に戦いが続き、最終的に天正8年(1580)8月、本願寺派が大坂の寺地を明け渡しするまで10年間続いた。この戦いと併行して、長島一向宗が蜂起、信長は全国の一向門徒衆を敵に廻すことになる。加えて比叡山延暦寺、近江の六角氏、大和の松永氏らが、義昭と信長との関係が悪化したことを受け、敵対するになっていった。 戦乱時の本願寺派のスタンスは、「仏法」に敵対する守護大名を滅ぼすことは「道理至極」であるが、百姓の事は守護の儀に随ふ として、百姓分の身分として、守護、地頭を退治せしむる事は望まないとしている。
天正8年、信長と本願寺との和睦交渉では、本願寺が大坂の寺地を明け渡す代償に、全国の本願寺門徒たちの地位を保障するという信長の提案に、法主であった顕如は従ったが、嫡子の教如はいったんは従いながらも態度を一変、諸国の門徒に籠城を主張したが、結局信長の軍勢に屈し和平を結び退去した。この親子の確執により本願寺は二分され、顕如死後、長男教如と三男准如との後継者争いとなり、母如春尼が秀吉の力を借りて、准如が法主の地位につく。対し、長男教如は秀吉死後、家康の時代にその力を借り東本願寺を建立、結果、権力者側の思惑通り、本願寺門徒の勢力を自ら二分していくのである。これにはまた、別の話も伝わり、信長は己の和睦を反故にした教如への遺恨から、父子とも成敗すべく、父顕如がいた鷺森の寺院を攻め立てた。顕如も流石にこれまでと思い、自害を覚悟した処、信長軍が突如として退いていったという。本能寺で主信長が討たれたの報は伝えられたためである。実は顕如を救ったのは、宗祖親鸞であり、親鸞が光秀に乗り移り、信長を滅ぼしたと「本願寺表裏問答」には記されている。歴史の裏も面白い。
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