「家康ピンチ」2三河一向一揆

 家康が、今川氏真と折衝、13代足利義輝などへの接触を重ね、こうした過程を経て、今川氏と決裂するのは、永禄3年(1560)4月である。次いで家康は、尾張の織田信長と同盟関係を結んだ。世にいう「清須同盟」である。今川氏からの援軍が得られない状態で、織田氏への抵抗を続けるよりは、逆に織田氏と連携して、今川氏から独立する方が、得策であると考えたのである。この時点では、信長と家康の立場は「対等」であった。この同盟により、信長は東の敵を気にすることなく、美濃の攻略に専念、家康も西の敵を気にすることなく、三河の平定に力を注ぐ事が出来た。永禄6年(1563)3月、人質交換によって戻ってきた、嫡男信康と信長娘・徳姫の婚儀が約束され、織田と徳川の同盟は更に強くなっていった。こうして三河一国の統一が順調になるかにみえた矢先、三河の国に「一向一揆」が勃発した。一向衆(本願寺派の門徒)だけでなく、服属していた三河の国衆たちが、一揆に呼応し始めたのである。

 「一向一揆」とは、戦国時代の15th後半から16thにかけて起った浄土真宗本願寺派の門徒による一揆で、その集団による武装蜂起を指す。本願寺派の教えが拡大したのは、15th後半からで、積極的に活動を強化し、大坂石山本願寺を創建、本願寺派発展の基礎を築いた、八世門主蓮如上人によるものである。一揆とは、当時の封建的人間関係において、当時、力を得ていた朝廷や武家政権に迎合する、宗教、信仰ではなく、加賀一向一揆では守護大名富樫を追放、三河では家康に敵対、最高権力者になった信長に対しては挙兵するといった、開祖親鸞聖人の教えを継承する、浄土真宗の教義「他力(仏)本願」が、この時代において「現世批判的」「非権力的」な信仰として培われていったためと考えられる。

 戦国時代までの史料には、「一向一揆」という言葉はない。加賀の一揆や「石山合戦」における門徒の蜂起は、もっぱら「一揆」ないし「土一揆」と呼ばれていた。その衆は、村や街の住民や、飢饉や災害などで京などへ流入する、流民や武士だったり様々であった。こうしたことから、一連の「一向一揆」は、土一揆と同一視され、その中心となっていた本願寺は「土一揆大将分本願寺」と呼ばれていた。「信長公記」も、元亀元年(1570)9月の大坂本願寺の蜂起を、単に「一揆蜂起」と記し、これに呼応した近江門徒を「江州にこれある大坂門徒の者一揆をおこし、尾、濃の通路止むべき行く手立て、軍事作戦仕り候とも、百姓などの儀にて候間、物の数にて非ず」と民衆の力を馬鹿にしたようなふしもある。また、永禄6年から7年の三河一向一揆を記した、大久保彦左衛門の「三河物語」も、土呂本宗寺及び三河三ヶ寺が中心となった戦いを、単に「一揆」と記している。

 永禄6年、本願寺門徒の多い北陸、東海、畿内などで、門徒衆が地域の政治抗争に関わって武力蜂起した。三河でも今川義元が桶狭間の戦いで戦死、岡崎城に入ってやっと自立を果たした家康の領国で、本願寺や末寺が結集して、家臣や領民を巻き込んだ内乱が勃発した。三河はもともと一向宗(浄土真宗本願寺派)の勢力が強い地域であったとされる。結果、三河国内は戦国状態になり、家康はこの戦いで、鎧に2発の銃弾が撃ち込まれるという「ピンチ」に陥った。世にこれを「三方ヶ原の戦い(元亀3年、1571)」「家康伊賀越え(天正10年、1582)」と共に「神君三代目危機」と呼ぶ。この一向宗との激しい戦いになった原因は、①家康が、一向宗寺院への不入権を侵害した行為について蜂起した「不入特権侵害説」➁本願寺派が掌握する水運、商業などを、自己の手中にすべく、家康側が目論んだことによる反発「流通市場介入説」などがあげられる。一向宗との激しい争いの末撃退、これを機に急に講和の機運が生まれ、家康は一揆参加者に対して、赦免や寺内の不入特権の保証を約束した。しかし、一揆が終息すると、反対勢力を国外に放逐、敵対した家臣たちも一部を除いて追放した。また、一揆の中心となった三ヶ寺に対しては、一向宗より他の宗派への改宗を迫った。信仰の自由などなかった時代である。一向衆側より「前々の和議のゴトニ」との抗議に対し、家康は「前々ハ野原ナレバ、前々ノゴトク野原ニセヨ」と三つの寺を破壊、坊主たちを三河国外に追放した。家康にはこうした一面もあった。戦国大名のなかでは、自らの領内で「一向宗」を禁制の宗派とした例はいくつもあるが、何故危険なのかを明確に表明したのは秀吉である。「その国、郡に寺内をして、給人への年貢を済さず」つまり、一種の治外法権を認められた寺院が寺内を形成し、その権利を主張して大名に年貢を払わない行為、及びその国の支配権を脅かし、支配権を握ろうとする行為に対するもので、秀吉は以前のような「寺内の治外法権」を制限したのである。

 家臣団を二分したような一向一揆を克服することによって、家康は永禄7年春より三河への侵攻を再開、これにより三河一国の平定、支配が急速に進んでいった。永禄9年(1566)勅許による徳川改姓と従五位以下・三河守の叙任があり、これによって名実ともに三河一国の新興大名とての地位を確定していった。極楽浄土を願いながら、家族を捨てたのである。



 






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