「家康ピンチ」1桶狭間の戦いと家康自立➁

 永禄3年(1560)5月12日、駿河・遠江・三河三国100万石の太守、今川義元は駿府を発ち、2万5千の大軍を率いて尾張に侵入、18日、尾張沓掛城に入った。この時期、今川の威力は、尾張の鳴海城や大高城にも及んでいた。対する織田軍は、鳴海城には丹下砦、善照寺砦、中島砦を、大高城には丸根砦と鷲津砦を築き対抗していた。義元の出陣の目的は、①足利幕府にとって代わろうとした「上洛説」である。しかし、途中進路には信長の他にも、美濃には齊藤氏、南近江には六角氏が構えており、一気に上洛を果たす事は非現実的であった。➁大高城や鳴海城周辺の砦の排除を目的とした、三河の支配安定化説 ③尾張及びそれを含めた東海(伊勢・志摩)の制圧説など諸説ある。さて「桶狭間の戦い」の概略は、明治期に刊行された、陸軍参謀本部編纂「日本戦史 桶狭間役」による、僅か3千の信長軍が戦場を大きく迂回、義元が陣をはる桶狭間山(現在も桶狭間山という名はなく、名古屋市緑区有松山と豊明市の境の丘陵地帯、標高65m辺りを指しているという見方がある)に潜行、折からの驟雨に紛れて一気に攻め下り、義元を打ち破ったとされるのが、一般的に知られる史料である。処が創作性が強いうえ、信憑性に疑問が残る史料に基づいているとの疑問もあり、多くの問題点が残されている。

 義元は先ず大高城にいた松平元康(家康)に、丸根砦の攻撃を命じた。この時、清須城にいた信長は軍議を開くが、多くの重臣たちは籠城戦を主張した。信長はこれを退け、19日僅かな郎党を率いて、熱田神宮で先勝祈願、善照寺砦に入った。この頃には信長の手勢は3千に達していた。同じ頃、義元は鷲津砦丸根砦を攻略、昼頃には桶狭間山で、戦勝を祝して休息をしていた。信長は間諜(物見)から、義元は田楽狭間に休憩中との情報を得、今こそ勝機と判断、手勢のうち千人を善照寺砦に残して、信長の本陣がいるように見せかけ、自らは2千を率いて戦場を大きく迂回、丘陵地帯を進み、義元本隊を見下ろす太子ヶ根山で戦機を待つことにした。戦勝気分の今川軍は、信長の動きには全く気づいていなかった。激しい雨に乗じた信長軍が、今川本陣を攪乱、義元を打ち取ったというのが、先の参謀本部の詳細であり、義経のひよどり越え同様、日本戦史における代表的な奇襲作戦とされてきた。

 何故小数であった信長軍が、勝利をおさめることが出来たのか?先ずは長年に渡って信じられてきた、①狭い桶狭間という谷間に陣を敷いた義元を、信長が奇襲したという、参謀本部の史料が挙げられる。➁次に正面攻撃説。近世の大名は石高1万石につき、250人の兵を動員できたという。今川領の石高は約100万石と推定され、兵は2万5千、対して尾張領も地味も豊かで商業も盛んであっため、凡そ70万石と見込まれていた。結果、両国の国力に差はなく、そもそも桶狭間の戦いは、信長の兵力を集めての今川陣営の包囲、殲滅戦の成果が、勝利に結びついたとの説もある。また、「信長公記」には、信長は善照寺砦から中島砦に入り、そこから義元本陣に向け進撃したとあり、迂回、奇襲の記述はない。因みに信長公記とは、信長家臣・太田牛一が著した信長の伝記である。牛一が仕えていた当時の事を書き留め、慶長3年(1598)頃にまとめた物である。その内容は極めて信憑性が高いと評価され、信長研究の基本資料として知られている。小瀬甫庵の「信長記」は、これを底本として脚色したものである。次に最も妥当だとされる説は、③信長は今川軍の「乱取」状態に紛れて、桶狭間山の山際に接近することが出来たという。乱取とは勝ち戦の軍勢が、戦利品を求めて各方面に散っていくことをいい、そのような状態の中を、入り混じって接近していったものと考えられる。

 義元討たれるの正確な情報をもたらしたのは、母・於台の兄、織田方の武将水野信元である。その報を聞いた家康は大高城を退去、岡崎に向かった。「捨城ナラバ 広(拾)ハン」(三河物語)と述べ、6歳の時出てから13年ぶりに、父祖の居城・岡崎城に入った。三河物語は続けて、「駿河(今川)と 御手切ヲ被レ成候エテ 元康ヲ帰(替)セラル面 家康ニナラセラレ給ふ」と記している。名も元康から家康に変え、一国の独立大名としての立場を宣言した。永禄3年(1560)家康19歳、自立である。

 「家康ピンチ」ラインナップは、次の通りです。「桶狭間の戦いと自立」永禄3年(1560)、「三河一向一揆と信長宗教戦争」永禄6年(1563)、武田氏興亡「三方ヶ原の戦い」元亀3年(1572)、「長篠の戦い」「天目山の戦い」反逆児「岡崎三郎四郎信康二俣城で自刃」天正7年(1579)、「本能寺の変」と「神君伊賀越え」天正10年(1582)、秀吉vs家康「小牧長久手の戦い」天正12年(1584)、「北条氏滅亡と江戸入府」天正18年(1590)、「秀吉老害と関ヶ原の戦い」慶長5年(1600)、豊臣政権存続の夢「大坂冬の陣・夏の陣」元和元年(1615)。ドラマとのギャップをお楽しみください。「チーム江戸」

   

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