シリーズ「家康ピンチ」1桶狭間の戦いと自立①

 「人の人生は重荷を負いて 遠き道をゆくが如し 急ぐべからず」これは健康・長生きを前提としなければ、考えても無駄なことであった。故に、家康は自己管理に努め、人一倍に自己の健康に気を配った。死因は鷹狩りに行った際に食べた、鯛の天麩羅の食中毒だという。実際は長らく患ってきた胃の悪性腫瘍、胃癌であるとされる。今回の企画、シリーズ「家康ピンチ」では、戦いや事件を通して、家康が如何に人生の難関を凌ぎ、乗り越えていったのかを、時代を追ってお送りしていく。

 完璧な政治支配権を持つには、武家の棟梁である「征夷大将軍」と、公家の名誉職である「源氏長者」を、天皇から頂く事によって始めて成就する。征夷大将軍は武家の棟梁であり、朝廷から政治の実権を任されて、幕府を開くことが出来る。もともと「幕府」とは、敵を成敗(征夷)するために設置された、将軍の陣営という意味である。一方、源氏長者は、源氏の代表であり、朝廷に強い発言力をもつが、それだけでは政治の実権はもてない。慶長8年(1603)2月12日家康は伏見城に勅使を迎え、朝廷から待望の大将軍と源氏長者に任ぜられ、同時に右大臣、淳和・奨学両別当になり、牛車、兵杖も許された。これにより豊臣政権に代わる、徳川政権の形成に向けて、確かな一歩を踏み出す事が出来るようになった。

 徳川家の出自である松平家の初代親氏は、清和源氏である新田氏の一族で、上野国新田荘世良田得川郷の住民、得川義季の8代目の子孫とされる。従って、家康は新田系の清和源氏ということになり、征夷大将軍に任ぜられたと伝えられている。(東照宮御実記)徳川(松平)家は、十四家とも十八家とも云われ、これらの松平一族が共存、勢力争いもなく、家康が幕府を開くと、大名や旗本に就き、徳川の天下を支えていった。このような松平一族の平和主義的考えが、260余年の江戸幕府を支えていったのである。信長、秀吉にはこうした政権の土台になるような一族は、残念ながらいなかった。家康の祖父、清康は三河の国衆の一人に過ぎなかった為、譜代の家来は少なかった。加えて20歳の若さで三河一国を平定したが、25歳で家臣に謀殺されてしまう。嫡男弘忠(家康父)はこの時わずか10歳、松平家は分裂した。家康の母・於大は尾張国刈谷城主の水野忠政の娘、竹千代(家康)3歳の時、水野信元(於大の兄)が今川方から織田方へついた。このため、弘忠は於大と離婚、駿府の今川義元に援軍を請い、その見返りに家康を今川に人質として送った。天文18年(1549)父・広忠も24歳で謀殺される。同父の兄妹たちがいなかった竹千代は、単独で人生のピンチをいくつも乗り越えていかなければならなかった。西三河松平家の領地や家臣たちは、今川家の支配層に組み込まれていき、竹千代の織田家から今川家と、長い人質生活が始まる。家康人生のピンチの連続は、祖父清康が若くして殺されてしまった事から始まった。因みに、徳川家の家紋を「葵」に定めたのは清康だという。東三河の戸田氏を服従させた際の祝宴で、家臣の本多氏が、酒の肴を水葵の葉に盛って出した処、清康殊の外慶び、家紋を葵にしたと伝えられている。

 駿府人質時代の竹千代は、義元の軍師とも云われた臨済宗・大原斎の薫陶を受けながら、人質生活を送っていたが、松平の家臣たちの生活も苦しく、農作業して家計をしのいだ。また、主君が人質にとられていることにより、戦の際には常に先鋒を受け持たされ、多くの家臣たちが命を落としていった。(三河物語)弘治元年(1555)竹千代元服、松平次郎三郎元信を名乗る。弘治3年、関口義広の娘・瀬名姫(築山殿)と婚姻。この婚姻により元信は、今川氏一門に準ずる武将となった。その後、祖父清康の「康」をとり「元康」と改名。今川家における松平領国の運営は、現代の企業グループに例えるならば、親会社と子会社の関係であり、かなりの裁量権が与えられていたといわれる。

 


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