初春編 ③十軒店ひな人形と鎌倉河岸白酒

 「ひいな祭り・桃の節句」は、人形に託して海や川に流した、一種のお祓い的行事であったものが、平安時代になり、豊作を願う春の種蒔きや、身の汚れを祓い健康を願う行事へと発展、室町時代になると、「上巳の節句」として定着していった。江戸時代になると、公家社会や武家社会だけでなく、一般庶民にも、生活のゆとりが生まれ一般化していった。日本橋本町と本石町を通る通町筋、十軒店本町から明治44年十軒店町に、昭和7年、日本橋室町に改称、現在の室町3丁目辺りは「十軒店」と呼ばれ、桃の節句が近づくと人形や飾りが売られた。この町の名は、世田谷にある三軒茶屋や、新宿にある四谷、日本橋川沿いにあった四日市といった、同じ感覚の地名である。

 江戸時代においては、2月25日から3月2日までの約10日間、ここに十軒ほどの店が立ち並び、ひな祭りなど五節句の季節になると、従来の小間物、足袋、煙管などの商売をたたんで、節句に関わる商品を売り出したり、それらを扱う商人に10~15両で店を貸し、賃料を稼いだ。「凞代勝覧絵巻」には万屋、大黒屋の店名が見られる。ひな市に関わらず、こうした市はここ十軒店の他に、尾張町(銀座)、麹町、人形町、浅草芳町、池之端仲町、神楽坂、駒込などにも立ったが、中でもここが一番賑やかであった。「三所に 仮の皇居を 二月建て」 京では四条通リ、大坂では御堂筋でも市がたったが、京阪では仮店などは出なかった。江戸では、居店、貸店は新品を売り、通りの真ん中の仮店(出小屋・中店)では、更に大きな店では真ん中に二列店を作り、通る道を三列にしたが、ここでは雛飾り用の小道具や、庶民的な比較的安価な商品を売っていた。(江戸名所図会参照)財力を蓄えてきた庶民層が、家運、子孫繁栄を願って、娘や孫娘に買い与えていった。商品には正札はついていなく、値段は交渉次第であったが、内裏雛で一組5両程したというから、現在の約50万ほどであろうか。「端午の節句」にも市が立ち、五月人形や幟が売られたが、桃の節句のような賑わいは見せなかった。江戸時代は建前として「男社会」であっが、女に関する行事の方が盛んであった。それは白酒と柏餅の売上と正比例していた。祭りが過ぎると、この通リはいつもの平常な佇まいに戻っていった。 「内裏ヒナ 人形天皇の 御宇かとよ」芭蕉

 雛人形とともに「桃の節句」になると、人気を博したのが鎌倉河岸豊島屋の白酒である。毎年2月25日からは「酒、醤油、油粕休申候」の看板をあげ、他の品物は販売中止、予め切手を販売して白酒のみを販売、魚河岸、芝居小屋、新吉原を凌ぐ売り上げをあげた。慶長10年(1605)2代秀忠は、天下普請の一環として、江戸城拡張工事を始めた。これに伴なう石材を石綱船で回送、積み下した場所が、常盤橋から神田橋、鎌倉橋辺り(現在の神田から大手町の内堀沿い)の鎌倉河岸、この名の由来は、建築材料に鎌倉の石材が多く使われたとか、この荷揚げ場で働く人夫に、鎌倉の人間が多かったからともいわれている。この河岸には江戸初期、魚河岸があった。ここから日本橋に移転するのは、慶長19年(1614)1月から始った再度の江戸城拡張からだとされる。また、遊女屋も15~16軒ほどあったが、元和3年(1617)に、人形町元吉原に吸収されている。

 江戸の頃の居酒屋は、小売りの店が味利きのために、枡やぐい呑みで、居酒を立ち飲みさせたのが始まりとされる。現在でも、赤貝の缶詰をアテに酒屋の店頭で、家に帰るまで待ちきれなくて飲っている「角打ち」と呼ばれるあのスタイルである。元禄年間(1688~1703)あたりから、居酒屋は入口に縄暖簾をさげ、空樽に長い板を渡した腰掛けや、床几を置いて酒を飲ませた。アテは煮売りの惣菜、呑兵衛のお客は背もたれのない板の上に、片足だけ胡坐をかいて、上半身を安定させながら、ぐい呑みでひっかけた。式亭三馬はこの姿を見て、「片膝置いて片足下し、むかいあうて尻かけたる形容は、さながら御随身に似たればとて、「矢大臣」と呼びそめしが、ついには煮売り屋の通句とはなりぬ」と説明している。江戸の庶民に人気のあった居酒屋は、日本橋新和泉町の四方酒店、ここは池田からの下り酒「瀧水」が売れた。他に、外神田昌平橋外の内田商店などであったが、ダントツは鎌倉河岸(神田美土代町)の豊島屋酒店であった。現在、本店は千代田区猿楽町錦華公園脇、豊島屋酒造は東村山市で「金婚正宗」を醸造している。豊島屋では河岸で働く職人、駕籠かき、馬方、ぼて振りなどを相手に、一合八文(約¥200、二八蕎麦の半値)というほとんど元値で販売、一串二文の自家製の豆腐を焼いて、赤みそを塗った馬方田楽と呼ばれた田楽をアテに、樽酒を安く飲ませて評判となっていた。因みに市中の豆腐は1丁28文であった。

 「白酒で 夕焼けのする 富士額」白酒は、元来、邪気を祓うため、酒に桃の花びらを入れて飲む行事が「花白酒」という形で残ったものといわれる。桃は古代中国では邪気を祓うものとして珍重され、日本でも明治の終り頃まで、3月3日は「桃湯」がたてられていた。豊島屋の創業は慶長元年(1596)、評判を高めたのが「白酒」、販売の光景は「江戸名所図会」にも描かれている。評判の白酒販売のきっかけは、「世の中の半分は女である。その半分の女たちが飲める甘口の酒を造ろう」と、味醂に蒸して摺り潰したもち米と、焼酎をまぜたもので、この白酒は荒くて辛味があるが、精製されているので旨いと評判であった。現在でも東村山で造られている。2月25日からの売り出しには、例年、矢来を設けて入口と出口を別にし、一方通行にして交通整理、勘定は手間取らないように、予め切手を売り出し、それと白酒を引き換えるという方法で混雑を解消した。それでも怪我人が出たという。初日だけで1400樽、千両余りを売るという繁盛ぶりで、日本橋魚河岸も人形町の芝居小屋も浅草新吉原も、この日は豊島屋には負けた「山なれば富士 白酒なれば豊島屋」と謳われ、「雛棚の 下で豊島(年増)の 味を褒め」とも詠まれた。空になった樽は店前の堀端に積みあげられ、神田橋御門まで続いたという。これらを醤油屋、味噌屋、酢屋、漬物屋などへ、1個銀1匁から1匁2分で転売、樽で稼いだ金で、商品を廉価で提供し、お客を喜ばした。現在の完全リサイクル商売が、功を奏したのである。



 

 

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