ハレの日の色 初春編 ②春の弥生のひいな祭り
我が国では伝統的節会が様々な形でおこなわれてきたが、これらを江戸時代になって、幕府が「五節句」として定めた。「節句=節供」とは、元来皇室の節日に天皇に供された食事の事を意味した。後にこのハレの日の食事を供する日を、節句と呼ぶようになったとされる。古代中国の陰陽五行説では、奇数が陽で、偶数が陰である。我が国でも平安時代にこの考え方が伝えられた。3月3日、3月上旬の最初の巳の日を「上巳(じょうし)の節句」=「桃の節句」として、宮中などでは「曲水の宴」が催され、酒盃を流水に浮かべて、盃が自分の前に通り過ぎるまでの間に和歌を詠み、流水によって身の穢れを祓う風習があった。また、仙果である桃の花を飾り、身代わりの人形に、穢れや災難を移して、水に流す風習があった。また、沢山の実をつける桃は、邪気や災いを祓う霊木とされ、ひな祭りは人形遊びから、女の子の祭りとして定着していった。当初、貴族や武家などの間だけであったものが、江戸時代中期頃から、庶民層の生活にゆとりが出来、家族の安全や子孫の繁栄を願って、この習慣が慣習化していくことになる。このハレの日には、家族揃って白酒を飲み、季節の草餅や蛤を食べて身の穢れを祓い、命の再生、身体の機能回復を願うのを習わしとした。
「雛遊び」は、「源氏物語」「枕草子」「宇津保物語」にもでてくるように、古くは小さな女の子が土人形を並べ、ままごとのような普段からの遊びであった。その雛遊びが「上巳の節句」と結びついて、女の子の健やかな成長と幸せを祝う祭り「桃の節句」に変化していったのである。中国から上巳の節句が伝わった頃は、紙の人形に穢れを移して、川や海に流していた。この風習が現代の流し雛として伝わっている。「人形」とは「人間の形代(かたしろ)」からきた言葉であるが、流すための人形から、飾るための人形が作られるようになるのは、室町時代になってからである。この時代は立雛で、座るようになるのは江戸も寛永年間(1624~44)の頃である。紙雛、土雛、衣装を着た飾り雛と段々とはれやかになり、金襴緞子の人形が誕生していった。人形飾りも三段や五段飾り、七段飾りにまで発展していった。やがて娘や孫娘の嫁入り道具のひとつとなると、なお一層豪華になり、壇の上に緋毛氈の敷物を敷き、その上に人形を飾るようになった。(因みに、彦根藩井伊直弼の次女弥千代が、高松藩松平家に嫁した時の嫁入り道具のひとつ、雛道具が今でも彦根城博物館に飾られている。弥千代は桜田門外の変でいったん離縁しているが、明治になって再び松平家に嫁いでいる)元禄年間(1688~1703)には十二単を着た「元禄雛」、享保年間(1716~35)には台座を含めると一尺五寸(約45㎝)もの大型雛が生まれた。こうして女の子の祭り「ひな祭り」は時代とともに、その時代の風潮を反映して、益々華美豪奢、豪華絢爛になっていき、八代吉宗などは度々華美禁止令がだしている。さて、現代でもジジ、ババが可愛い孫娘のために、というより嫁にいった娘にせがまれて、雛飾りを買い与えているが、現代では男雛は向かって左、女雛は右に飾られるが、元々は逆であった。古都京都では、今でも古代にのっとって 男雛は右、女雛は左に飾られている。
桃は中国原産、我が国には弥生時代に渡来、古事記や万葉集にも登場、古代人にとっても馴染みの深い植物であった。植物学的には、バラ科モモ属の植物で1~7mにまで成長、夏に実をつける。見頃は3月下旬から4月上旬、一般には桜より早く咲くが、東北地方などの寒冷地では、梅、桃、桜が春もうららの頃に一斉に咲き出す。磐越東線に一本桜で著名な「三春」という町がある。この町の名はこれに由来するという。江戸時代から、薬用、鑑賞用とて栽培されてきた桃の名の由来は、沢山の実がなるから「百(もも)」、実が赤い事から「燃実(もえみ)」、よく知られる果実である事から「真実(まみ)」などが転嫁して、桃となったとされる。桃の実(peach)には、古来より中国や日本では、邪気を祓う神聖な力が宿るとされ、不老不死の霊薬として信じられてきた。桃源郷とは不老不死の理想郷を表している。秦の始皇帝が渤海湾に浮かぶ蓬莱山で探させたのも、この実であったかも知れない。また、欧米では、桃は女性の象徴とされ、「私は貴方のとりこ」「気立ての良さ」といった花言葉が贈られている。
古代日本では「桃色=Pink」という色名はなく、桃の花を摺り込んで着色したものを「桃染」とか「桃花褐(つきその)」といい、淡い紅色(薄紅色)である。また、桃色の色域は「朱華色(はねずいろ)」「唐様花(はねず)」ともいう梅や桜の花の色を指しており、この色域は撫子色、紅梅色、桃色、鴇(とき)色に及ぶ。英語のPinkは、本来撫子、石竹の色を示している。また、薄紅色は愛を示す色ともされ、移ろいやすい恋心を象徴している。飾られる「菱餅」は通常三枚重ねで、下から緑、白、桃色の三色だが、地方によっては二色、五色だったりする。緑色を出すには江戸では蓬を混ぜるのは珍しく、代わりに青粉をいれ、京阪では蓬をかき混ぜ、その中に青粉を入れて緑色を綺麗にだす。江戸では草餅といい、京阪では蓬餅といって、春の芽吹きを表している。中段の白色は春の淡雪を表現、梔子(くちなし)の実で色づけた桃色は、桃の花を表現している。
ハレの日に欠かせないのが、おめでたい魚「🌸鯛」、真鯛の仲間であるが、桜の咲く頃に獲れるので「花見鯛」の別名があり、春の季語にもなっている。この魚、脂がのっているがクセがなく、刺身や煮物、焼物や、鯛飯にしても楽しめる。茹でると綺麗な桜色に変わる「🌸海老」は、南に富士山がよく望め、また、東海道の親不知ともいわれた薩埵峠を控えた、東海道十三番目の宿場町、駿河湾由比宿の名産である。干したものをかき揚げにすると絶妙の味がでる。また、富士の眺めがよい望嶽亭は、慶應4年(1868)山岡鉄舟が、ここの店の地下を通り追手から逃れたというエピソードがあり、そのお礼のピストルも残っている。🌸ずくしのもう一品は、向島長命寺の売り物「🌸餅」である。餡入りの餅を塩漬けした桜の葉で包んだ逸品である。江戸では皮を小麦粉で、京阪では道明寺で作った餅で、餡をくるんでいる。この🌸餅は、川(皮)を向いて(剥いて)食べるものである。また、ひな祭りに欠かせないものに「蛤」がある。二枚貝の代表的な貝、蛤はもともとの貝でないと絶対に合わない所から、夫婦和合、良縁をシンボル化した食べ物として結婚式などでも供される。旬は2~4月、貝の色は蚕の撚(練)糸のような色をしており、黄味を帯びた白色で「練色」と呼ばれる。春もうららのころになると、「野点」も楽しい。伝統的な作法にとらわれず、桃や桜を賞でながら、気軽に抹茶や菓子を味わうのが野点である。もう少しまったりすれば、その辺のベンチや芝生に座り、朝入れてきた珈琲でも飲みながら、木々の花を眺め、春風に身をまかせ一服するのも、令和風野点である。
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