<江戸色彩の研究> 第2章ハレの日の色 初春編①

春は名のみの <初春編>

 江戸の町並みは、普段は無彩色な地味な色合いであった。ところが何かの行事や、人生の儀礼の際には、色彩に彩られた華やかな町に変わっていった。江戸っ子たちは、祭りや年中行事、人生の儀式に、こぞって人生の喜びを感じ、生活を楽しんだ。毎日が祭りのような、浅草観音様の町のような処では、日頃禁じられていた華麗な色彩が乱舞、色彩の饗宴が繰り広げられた。江戸っ子たちは、節句や祭りなどの年中行事に、単調な毎日の繰り返しからの故に、日頃の地味な色を忘れ、日頃の娯楽の少ない生活を忘れ、「ハレの日の色」の空間に身をおき、自分の心と気持ちを、高揚させたのである。まさにその日こそが「ハレの日」であり、江戸っ子たちの生きている証拠であり、その場所における自己の存在価値があった。

 「ハレの日」を彩ったのが、陰陽五行説に用いられている、黒、赤、白、青、黄の五色や、紅白や金などであった。また、食の生活においても、論語に「色の悪しは食らわず、臭いの悪しきは食らわず」とあるように、中国では、料理における「色」の重要性は、この時代からいわれてきた。無論、我が国においてもしかりであった。さあ、江戸の初春の風物詩・歳時記から、ハレの日の色をさぐってみよう。<門松>正月にやって来る福の神や年神様の目印として、家の玄関先に飾るのが門松、古くから長寿と不変を象徴する縁起物である。「松葉色」をした松葉の他に、竹(緑色)や梅(紅白)を組合せ、飾るのは暮れの13日以降、しかしながら、29日は「苦」につながるとして、31日も一夜飾りとなるとして避けられた。<おせち料理>とは、神への供物、節供(せちく)料理が語源、三つ肴、または祝肴といって、関東では黒豆、数の子、五万目、関西では五万米に代わって叩き牛蒡となっている。因みに「三」という数字は、完全を意味し、全体を統一する働きをしているという。<黒豆>は、五行説では、最も尊い天の色とされ、赤い<チョロギ>は、赤色は魔除け、厄除け、長寿祈願の色で、草石蚕、朝露葱、千代老木、長老貴などと書く。<数の子>は、鰊の子,鰊は春告魚ともいわれ、春の魁を告げる目出度い魚である。数の子の黄色は、古代中国においては、地上で最も尊い皇帝の色となっている。<五万米>は、田作りともいわれ、片口イワシを材料とする。田植えの際に肥料(干鰯)にしたところ、米が五万俵も獲れた事から、五万米と書くようになったという。<叩き牛蒡>は、豊年の年に現れる黒い瑞鳥(鳳凰)を表しているという。黒は豊かな実りと幸せを祈っている。また、おせち料理として食べられる<くわい>は、芽が出るに通じて縁起物とされ、その色は「縹(はなだ)色」、その中でも最も薄い、紫がかった青色をしている「浅(薄)縹」と呼ばれている色をしている。

 <人日(じんじつ)>1月7日は五節句のひとつ、奇数が重なる3月3日は上巳(じょうし)桃の節句、5月5日は端午の節句、7月7日は七夕、9月9日は重陽(菊)の節句と続く。7日には、<春の七草>を刻み込んだお粥を食べる。平安時代には正月最初の子(ね)の日に、野山に出て若菜を摘む風習があり、「延喜式」に見られる七草粥と、若菜摘みの風習が合わさり、七草粥になったといわれている。邪気を払い、正月料理で疲れた胃腸を休め、1年の無病息災を願う行事である。七草の基調色は深緑、「深」は「濃さ」を表し、年間を通して「縁(えん)」を保つ色とされている。野山に出かける<若菜摘み>は、外出する機会の少なかった、江戸時代の女性たちにとって、大きな愉しみのひとつであった。向島や新宿十二社、日暮里、道灌山などの陽当たりの良い南斜面は、若菜摘みの好適地、嫁菜、早蕨、蒲公英、菫、土筆など、花や薬草を摘んで、春の一日を楽しんだ。春の一日を楽しむには<七福神巡り>や<恵方詣>もあった。入谷、向島(隅田川)、深川、亀戸、日本橋など、ゆかりの神社仏閣を巡って、今年の運と無病息災を願った。太田南畝など文人墨客が発案して始まったと<向島七福神>は、三囲神社(大黒天、恵比寿)、桜餅の長命寺(弁財天)、百花園(福禄寿)などを巡る。この園でも初春に花を咲かせる<福寿草>は、日本全国に自生、別名天日草といい、支子(くちなし)色の花を咲かせる。中国や日本が原産の、支子の実で染められ、濃い黄色をしている。「口無し」にかけて「謂われぬ色」とも呼ぶ。

「君がため 春の野に出で若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ」 光孝天皇

「石ばしる 垂水のうへの早蕨の 萌え出ずる春に なりにけるかも」 志貴皇子

 7日は<出初式>の日でもある。明暦の大火後の万治2年(1659)、上野東照宮で始められたのが起源とされ、「留紺(とまりこん)」の半纏に身をつつみ、軽やかに梯子の上で技を披露する様は、江戸っ子ならではの「粋」を感じさせる。留紺は紺屋泣かせの色彩で、何度も何度も染めを重ねて出る色である。藍染めの中でも、最も濃く染められた色で、黒に近い紺色をしている。これ以上濃くは染まりませんよ という意味で。留紺と呼ばれた。江戸時代、紫、黄色、紅色などは禁色として、濃く染められない時期があったが、藍染めに関しては、この適用が無かったため、この色が生まれたという。正月も11日になると、<鏡開き(具足開き)>が行なわれる。正月の間、具足(甲冑)や、女性なら鏡台の前に飾られていた丸い餅を、手や木槌で割ったことから、割る=(運を)開きという言葉が使われるようになり、「開き」は無論、末広がりの意味をもった。初稽古の後など、この鏡開きの餅を食べるのは小豆、関東では「お汁粉」関西では「ぜんざい」大奥では「おゆるこ」と呼んだ。ハレの日に食べられる小豆には、古代から魔除けや厄除けの力が宿っているとされ、お祭りの前後に食べられてきた。小豆から取られた落ち着きのある深い紅赤色は、神様が宿る色とされ、幸福を呼ぶ招福パワー色とされてきた。「やぶ入りの 夢や小豆の 煮えるうち」 蕪村。1月15日、16日は<小正月>、16日は<やぶ入り>。蕪村の句は、やぶ入りで実家に帰ってきた息子に、お母さんが汁粉を作っている。その間についうとうとと居眠りをしてしている、息子の情景を詠んでいる。毎年小正月16日と7月16日は、奉公人の里帰りの日であった。江戸の町では、15日に門松、注連縄などの正月飾りを取り込み、16日の朝に燃やす<どんと(頻度)焼き>が行われた。正月に迎えた年神様を送り、これから1年の無病息災を願う行事である。この燃えた炎で焼いた、団子や餅を食べると,1年間病気をしないという。20日になると、京都では<二十日正月>、正月飾った鏡餅や団子を、小豆と共に食べる。今年もよろしくという事で、二十日=初顔と、語呂合わせが良いことからきたと云われる。



江戸純情派「チーム江戸」

ようこそ 江戸純情派「チーム江戸」へ。

0コメント

  • 1000 / 1000