「甦れ瀬戸内の海賊たち」<旅情編> ②

 慶長5年9月(1600)関ヶ原の戦いで戦功をあげた藤堂高虎は、伊予(愛媛県)半国20万石を家康より拝領、慶長7年から、約5年をかけて完成させたのが「今治城(吹揚城)である。かって内堀(幅50~70m)、中堀、外堀の3重の水堀をもち、瀬戸内海の海水を引いているた日本でも珍しい「海城」である。中堀の端には広い港湾となっており、現在の今治港となっている。戦国時代から江戸時代にかけて、浅井長政、信長、秀吉、家康と主君を変えながら、時代を巧みに乗り切ってきた武将が、藤堂高虎であり、加藤清正、黒田官兵衛と並ぶ築城の三名人の一人でもあった。今治城は海(海賊)を意識して構えており、瀬戸内を整備する役割があったと考えられている、瀬戸内海に面した砂丘地帯(吹揚の浜)の上に築かれた為、石垣の周りには「犬走り」という平坦地を設け、地盤を強化する知恵も盛り込まれていた。城の掘割は海につながっており、潮の満ち引きによって水位が変化、ボラやチヌ(黒鯛)が泳ぎ、真水が湧いているところでは、メダカも泳いでいるという。

 JR今治より「予讃線」を西に進むと、道後温泉と坊っちゃんの町「松山」。温泉で疲れを癒し、更に西進すると向井原で「内子線」と分岐、伊予大洲で合流する。日本一海に近い駅「下灘」は予讃線にある。かって18きっぷのPRポスターにも使用されたこの駅は、夕陽の風景に人気がある。愛媛県自体が西に位置している為、関東や関西よりも陽の入りは遅い。5~8月頃の夕陽は北西方向、駅のホーム越しに、正面の伊予灘に沈む。夕陽ごしに映る人影のシルエットは、旅情をくすぐり絵になる。演歌港町ブルースでお馴染みの「八幡浜」は、佐多岬半島の付け根にある港町である。この「予讃線」は宇和島まで走る。その先は「予(伊予)土(土佐)線」となって、日本最後の清流といわれる「四万十川」の沈下橋をのぞかせながら、若井まで走っている。伊予八幡浜から関サバ、関アジの豊予海峡を渡り、豊後別府に無事到着した、令和の旅人は、九州上陸を記念して、先ずは湯の町別府温泉にドブン、これまでの四国の疲れを癒し、おまけに生を少々頂いて、爆睡となる。

 「よみがえる昼の瀬戸内航路」2012、4/30催行と銘うった、昼の瀬戸内航海は、瀬戸内の多島美と共に、これまで歩んできた「来島海峡大橋」「瀬戸大橋」「明石海峡大橋」を船のデッキから見上げようという企画である。航行船舶の多い瀬戸内海においては、昼間の混雑を避けるため、夜の帳がおりる頃に出航、翌朝に目的地に着岸するように運航される。車と共に乗船したドライバーたちは、線内でゆるりと睡眠をとれる。しかし、夜間航行のため、自慢の多島美は眺められない。夜は東京では見れないこうこうとした月の明かりと、満天に輝くスターダストが迎えてくれる。海上版「ジェツトストリーム」の世界が拡がっている。それらを踏まえて企画されたのが、今回の昼の瀬戸内航路である。総トン数9245t、全長150m、航海速力22、4ノット(約41㌔/h)のさんふらわあ あいぼりは、別府観光港をam10:00出航、昼近く伊予灘通過、進行方向左側に見えてくる島が「八島(やしま)」。源平合戦で破れた平氏が、その後開拓し住み付いたとされる島で、平家伝説が多く残されている。13:30頃、伊予柑とタコの釣島(つるしま)に近づく。松山市沖合の釣島水道は、今迄の「伊予灘」と、これからの「安芸灘」を隔てている水道になっている。また、戦前、戦中、旧帝國海軍の大和などの戦艦や駆逐艦が、呉港からこの水道を通って戦場に赴いている。14:48 「来島海峡」通過、大橋の下に馬島という小島があり、潮流が早い為、潮流が進行方向と同じである「順潮」の際には中水道、「逆潮」の際は西水道を通過、「順中逆西」という方式をとって、航海の安全を図っている。16:30 「塩飽(しわく)諸島」通過。岡山県と香川県に挟まれた西備讃瀬戸に浮かぶ大小28からの島々からなる。名の由来は「塩焼く」「潮湧く」ともいわれている。「塩飽水軍」は、秀吉の朝鮮出征で活躍、その功により朱印状と七島1250石を拝領、幕末には威臨丸の乗組員として活躍した。この諸島に属し、かって北前船の寄港地として栄えた島が「粟島」。16:45 香川県丸亀市に属する「広島」が見えてくる。空海の遺跡や、戦国時代、長宗我部氏に敗れた一族が、海岸に住みついたといわれる。

 17:00を過ぎると本四架橋のひとつ「瀬戸大橋」の下を通過する。1978年の着工から9年6ヶ月を費やして完成、上部には4車線の瀬戸中央自動車道が走り、下部はJR本四備讃線(瀬戸大橋線)が通る2階建て構造である事から、「鉄道道路併用橋」と呼ばれ、この形式としては世界最長で、人工衛星写真からも確認出来るという。18:12頃、男木島(おぎじま)接近、香川県高松市に属し、温暖な気候を利用して豆類、花卉の栽培が盛んである。源平合戦で那須与一が射た扇が流れついたことから、「おぎ(おおぎ)」という名がつけられたと云う。ここの全国でも珍しい御影石造りの、男木島灯台は昭和32年作、木下惠介監督の「喜びも悲しみも幾歳月」のロケ地ともなった。この灯台の奥に位置する島が「女木島(めぎじま)」与一が射た、扇の壊れた残りの部分が流れついた事から「めぎ(めげた=こわれた)」という島名がついたとされる。本日の日没18:48、その少し前には進行方向左側に見えてくる島が、オリーブの島「小豆島」である。エーゲ海のミロス島と姉妹島となっており、年間を通して温暖で住みやすい。島内の高い山(817m)に登ると、瀬戸大橋、大鳴門橋、明石海峡大橋が一度に見渡せる事が出来る。ここでのランチは、名物鯛の燻り焼きを使った丼であった。土生港から見え、湾をぐるりと廻る、大石先生が通った岬の分校とオルガンが、今でも残されている。壷井栄原作の松竹映画モノカラー作品「二十四の瞳」は、浜辺の歌とともに、戦後の貧しい生活の中に、うるおいをもたらしてくれた。

 夜の帳もだいぶおりてきた。20:30過ぎには「淡路島」に接近、七色にライトアップされた「明石海峡大橋」が見事なシルエットを見せて登場してくる。海峡の最狭部の幅は3.6㌔、最深部は約100m、最大潮流7ノット(船舶は海の上では距離の単位に「海里」、速度の単位に「ノット」を使う。1ノット1海里=1852㌔m)ここに当時5千億円を超えるプロジェクトが組まれた。神戸市の東舞子と淡路市岩屋(第1次木津川河口の戦いでは、織田側の水軍が待機)を結んだ、世界最長の吊り橋である。建設当初は全長3910m、中央支間1990mであったが、1995年の阪神・淡路大地震で地盤がずれ、1m程延びたとされる。21:10、進行方向左側に神戸港のハーバーライトが身えてくる。横浜、長﨑、新潟、函館とともに5ヶ国との「修好通商条約」調印によって開かれた港町であり、江戸末期には居留地が開かれた。遠くは清盛が治承4年(1180)福原(神戸)遷都、対宋貿易を独占した。JR三ノ宮から坂道を上ると、風見鶏が挨拶してくれる教会となる。函館とならんでエキゾチックな坂の町である。22:00、長い旅路の航海もそろそろ終り 大阪南港に着岸、村上景が戦国末期、石山本願寺をサポート、食糧搬入の為戦った、昔の木津川河口あたりであろうか。一向宗本願寺派第11代門主、顕如は天正3年(1575)信長と和睦、天正8年顕如、教如、石山を退去、村上海賊のサポートは無となった。慶長19年(1614)大坂冬の陣、翌元和元年、夏の陣。大坂石山本願寺跡に築かれた「大坂城」は炎上、豊太閤の夢の跡となった。<チーム江戸>

 

 


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