「甦れ瀬戸内の海賊たち」<旅情編>①

 大小千余の島々で形成されている瀬戸内海は、東洋のエーゲ海と呼ばれる。瀬戸内海を隔てて、本州と四国(伊予、讃岐、阿波、土佐)を結ぶ、本州四国連絡橋(本四架橋)は、橋などで両国を結ぶ道路、鉄道ルートであり、四国近県の人命を守る、防災や物流、運輸、観光などを目的とした、国家プロジェクトとして立案された。昭和29年、青函連絡船「洞爺丸」が台風により遭難、翌30年5月、国鉄宇高連絡船「紫雲丸」が遭難し、修学旅行中の小学生など168名が犠牲になった。この時期、旅客船の沈没事故が相次いだ。これらを踏まえ、津軽海峡では青函トンネル、瀬戸内海では本四架橋の構想が具体化していった。

 瀬戸内では、①神戸・鳴門ルート(明石海峡大橋~大鳴門橋)神戸市垂水区舞子と、徳島県鳴門を結ぶ全長89㌔(橋梁部6.5㌔)事業費1兆5千億円、全面開通、平成10年4月。②児島・坂出ルート(瀬戸大橋は6っの橋の総称である)事業費約1兆1700億円。昭和63年4月、全面開通。この年の3月には青函トンネルが開通、日本の四つの島が、鉄道で結ばれた記念すべき年であった。③尾道・今治ルート(西瀬戸内しまなみ海道)全長59.4㌔(橋梁部9.5㌔)来島海峡第1~3大橋(吊橋)を含む9っの橋からなる。自動車道(しまなみ海道)に、サイクリングロード、歩行者、自転車の専用道路を併設。事業費約7500億円。平成11年5月、全面開通した。これら瀬戸内海を橋で結ぶルートの他に、海路ルートでは、和歌山~徳島(紀伊水道)、広島~今治(安芸灘、伊予灘)、八幡浜~別府(豊予海峡、ここは関門海峡からの親潮と、南九州からの黒潮がぶつかり、急流をなす海域で、佐賀関あたりは「速吸の瀬戸」と呼ばれ、身がしまった、脂ののった「関サバ、関アジ」などの好魚場である、尚、別府湾北部の真水の湧く海域は、江戸の将軍様にも献上された「城下カレイ」の魚場)など、数々の航路がある。

 瀬戸内海ジグザク横断にこだわる令和の旅人は、先ず明石海峡をバスで淡路島を横断、鳴門から「鳴門線」に乗り換え、「高徳線」で讃岐うどんの本場、高松から坂出へ向かう。揚げたて天麩羅に、冷たいうどんも良くあう。鳴門から徳島へ向かって「牟岐線」に乗り換えると、鯨が釣れる室戸岬へ、「徳島線」に乗り換えると、佃で多度津からきた「土讃線」につながる。この路線は、よさこい土佐の高知から、鰹の一本釣りの土佐久礼を経て、四万十川河口窪川が終着となる。「予讃線」坂出からの「瀬戸大橋線」は、塩鮑(しわく)諸島、備讃諸島に囲まれている。快速の「アンパンマン号」とやたらと行き違う。岡山から倉敷、福山と「山陽本線」を快適に乗り次ぎ、坂と千光寺(ここからも芸予諸島の多島美が堪能できる)の町、尾道に到着。旅人には少々塩辛い尾道ラーメンで一服、港近くのレンタサイクル店で、ママチャリを借り(一般車¥2000/日、電動¥2500/6時間、返却される保証料金は¥1100)、脚の長さにサドルを調整、いざ、いざ「しまなみ海道」走破の旅へ出発。

 尾道から今治まで、瀬戸内最強の海賊「村上海賊」が根拠地とした、芸(安芸)予(伊予)諸島を結ぶ、西瀬戸自動車道(しまなみ海道)に、サイクリングロードが併設され、ナショナルサイクリングルートに指定され、全長59.4㌔に及ぶ、日本初の海浜横断自転車道が完成した。自転車の時速は10~20㌔、ゆっくりで全行程約8~10時間、ロードバイクのサイクリストは片道3時間、しまなみ海道を日帰りで完走する猛者もいると云う。車道の左側に導線として、日本初のブルーラインが引かれ、2014年、CNNから世界7大サイクリングルートに選定されている。尚、ドイツ、フランクフルトなど各都市では、歩道と一体に自転車専用道路がおかれ、通勤、通学の便が図られているが、我が国においては、幹線道路に自転車マークが描かれ、1mそこそこに引かれた幅の内側を、幅寄せ車すれすれのリスクがある、「申し訳チャリロード」となっている。尾道からの芸予諸島は、渡船で先ず「向島」、向島大橋を渡って「因島」となる。因島へは、JR尾道から市営バス土生(はぶ)港行きか、三原港からも船が出ている。この島の名称の由来は、本州側から見ると、向島、岩子島などによって隠されているので「隠(いん)の島」、また、後白河院の荘園だったことから、「院の島」が因の島になったとされる。村上海賊の島「因島」には、因島水軍城がある。この島の主なる産業は、海賊の島であった所以から、古くから造船の町として栄えてきた。また、温暖な地である処から、旧暦8月1日頃から食べられる柑橘という事で、この名がつけられたとされる「八朔」の発祥の地でもある。更に、毎年5月頃になると除虫菊が満開となり、島全体を白く被いつくしていたという。町の伝統行事として受け継がれている、水軍ゆかりの「法楽おどり」は、「南無阿弥陀仏」と唱えながら、「とんだ、とんだ」の掛け声に合せ、五穀豊穣、無病息災を念ずる祭りである。かっての村上海賊の出陣式が、この祭りのルーツであるという。

 因島から「生口島」、多々羅大橋を渡ると「大三島」となる。大三島には、海上守護神、日本総鎮守として知られる「大山祇神社」が祀られている。この神社に自らの思いを詠んだ「法楽連歌」を奉納している村上水軍は、このことからただ単に、海の上の海賊衆に留まらなかったことが伺われる。大三島まで、JR尾道から「しまなみライナー」で54分、三原港から快速船で33分、しまなみサイクル王道コースでは、1日目のお泊まり島である。令和の旅人も素直にroom in、しまなみの鷗鳥となって翼を休める事にする。「能島」は伊予、今治からが近い。大島と鵜島の間に浮かぶ、周囲720mの現在は無人島である。南北朝時代の元弘年間(1331~34)に築かれた、能島村上氏の居城であった「能島城」跡が残っている。南隣の鯛﨑島、周囲約260mを含め、2島全体を要塞化したのが能島城である。周辺海域は潮流が速く、最大速度10ノット(時速約18㌔)、複雑で早い潮の流れが、能島を自然の要塞としていた。「能島村上氏」は、村上海賊の娘景の父親、武吉を当主とする戦国時代が全盛と云われ、資料室には伝来の古文書や美術工芸品、武吉や息子の景親が着用したといわれる赤い布地に、黒文字で〇の中に「上」の字を染め込んだ陣羽織、戦いの鎧などが陳列されている。大三島から橋を渡ると「伯方島」、次の「大島」から来島海峡大橋を渡ると、しまなみ海道のゴール地、今治である。因島、能島と並ぶ、村上水軍が「来島村上氏」であるが、他の村上氏が安芸の児玉氏や、小早川氏に協力したのに対し、来島村上氏は伊予の河野氏に協力、秀吉が中国攻めを開始すると、豊臣方に寝返っている。来島海峡は、「来島ノ瀬戸」など4っの狭水道からなり、潮の流れは10ノット、昔から「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関瀬戸(関門海峡)」と唄われた。この海峡を跨ぐ「来島海峡大橋第1~3橋(4105m」は、この形式としては世界初である。この橋を上から展望するには、JR今治から、せとうちバスで22分、展望台下車歩いて5分、さらに駐車場から石段を約100段、夜間はライトアップされる大橋、お天気の良い日は、西日本最高峰「石鎚山」まで見渡せる、絵ハガキのようなパノラマが拡がっていた。因みに展望台からJR今治に戻る周遊バス、車窓からは、海道、船上からに劣らずの多島美が眺められ、しまなみ海道の彩りを飾ってくれた。

 いよいよ次なる旅は、旅情編② 今治城から八幡浜、豊予海峡を渡り湯のまち、別府、別府から「よみがえる昼の瀬戸内航路 2012」となる。乞う御期待。



 


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