<18きっぷでゆく歴史浪漫>甦れ 瀬戸内の海賊たち・歴史編

 18きっぷでゆく<歴史浪漫>は、これまでの18きっぷでゆく<大人の修学旅行>から衣替え、歴史史話は勿論、旅情もたっぷりと盛り込んだ記事で御送りしていきます。先ずその第1弾は「甦れ 瀬戸内の海賊たち」歴史編、旅情編の前後編でお送りします。 

 安芸国尾道と伊予国今治を結ぶ「芸予諸島(通称 西瀬戸内しまなみ海道)」は、瀬戸内海の中でも数多くの島が点在、大小50以上もの島々で構成され、丁度瀬戸内海を遮断する様に、南北が連なっている。島と島のの間の海峡は、複雑な航路をなし、狭い水路は潮流が渦巻いている。室町時代後半から戦国時代にかけて、瀬戸内海では数多くの海賊衆が抜雇していた。海上の要衝に城=関所を構え、水先案内人の派遣や、海上警護などと称して、交易、流通の秩序を支え、海の安全を守る集団として活躍していたのが、「海の大名」海賊衆=水軍である。中でも瀬戸内の西部海域、芸予諸島の能島、因島、来島の三島に群立、室町時代には三家に分立して、海上活動をしていたのが、「村上海賊(水軍)」である。そのルーツは、村上海賊の系譜を記した「北畠正統系図」によると、平安期の村上天皇に溯るとされる。下って後醍醐天皇を支えた、北畠親房の孫、師清が芸予諸島に移住、村上家の名籍を継いで、3人の息子たちを3っ島に配したのが村上三家の始まりだという。また一方では、河内源氏の庶流信濃村上氏が、保元の乱(保元元年=1156)後、淡路島から塩鮑(しわく)諸島に流れ、平治の乱(平治元年=1159)後の永暦元年(1160)に、伊予大島に居を構えたとされる。村上海賊は、安芸尾道と伊予今治を結ぶ芸予諸島に幡踞(ばんきょ)した海賊衆である。

 足利幕府政権下の、永享6年(1434)備後村上氏が、四国の海賊たちと協力して、守護大名であった山名氏と共に、明よりの交易船が、北九州付近で襲撃されるのを防ぐ為、通行の警護に参加していた。こうして、足利将軍や守護たちは、瀬戸内の海上勢力を利用して、舶来品を積載した、遣明船の通航の安全を期していたのである。また、朝鮮の海域においても、戦国時代の初頭の寛正2年(1461)、村上一族が瀬戸内海にとどまらず活躍、対馬宗氏の仲介によって、朝鮮から図書(通航・貿易の許可証)を、「安芸海賊大将藤原朝臣村上備中守国重宛」に交付されている。この図書は安芸国以外にも、備後、周防、伊予、出雲、豊前など、他の諸国でも確認されており、中国西域から北九州、朝鮮半島に及ぶ海域にまで、交易活動に伴う海上勢力が、多数群立していた事が伺われる。

 戦国時代、能島、因島、来島の三島を城塞化し、本拠地としていた村上三氏は、毛利氏など有力大名と手を結んで、海上での戦いや兵糧輸送などで活躍、勢力を拡大していった。戦国大名が一円的な支配領域を形成していったのに対し、村上氏を始めとする、瀬戸内の海賊たちは、モザイク的な領域を拡げていった。当時、宣教のため日本に訪れていた、ルイス・フロイスは、石高約15万石、最大動員兵数1万人といわれた村上海賊を「日本最大の海賊」と称している。また、伊予国の歴史について記した「伊予盛衰記」によれば、村上水軍は「所々要害も多く(中略)領地とする所数多(あまた)なり。常に番船数百艘を出し海上径来を改む。物見の番所はここかしこにあって、相図の貝太鼓を通ずれば次第に至りて、百里も暫時に達す」とある。船を襲い金品を略奪する海の集団を、海賊(パイレーツ)というが、村上海賊(武吉)は、それらの行為の代わりに、航行する商船などを、他の海賊たちから守るという名目で、通航料「帆別銭(だべつせん)積み荷の10%」を徴収、航行の安全を保障した。これより約160年程前からも、「上乗り」と云われた慣習(法則)が組み込まれており、当時の朝鮮李氏の官人は「東より来る船は、東賊1人を載せ来たれば、西賊これを害せず、西より来る船は、西賊1人を載せ来たれば、東賊これを害せず」と記している。即ち、東西を往き来する廻船は、海賊を1人乗せていれば、これが通航手形となり、安全な航行が保障されたのである。尚、上乗りがいない場合、通航料である「帆別銭」を支払い、その見返りに旗や免符を取得、これらを示し、安全保障の代わりとした。天正9年(1581)景の父親村上武吉が、発行した通航旗が現存している。約60×75cmの布に、「上」と大書きした簡素なものである。また、軍事船を停めおき、親書の開封、閲覧などを通じて、諸国の同盟関係を分析、交渉、その見返りを要求して収入源としている。尚、いわゆる海賊たちは、戦い以外でも水の事故に合う頻度が多かった為、家(姓)が途絶える事を危惧、村民たちにも同じ姓を名乗らせた。また、戦い負けた側の女や子供たちを、嫁や養子に迎えて種族の存続を図った。「村上海賊の娘」の主人公「景」以外にも、武吉は養女を迎えていたといわれている。

 16th後半、畿内の覇者となった信長と、領国をより東方に拡張していった、毛利氏との対決が始まる。それまで両者は、足利義昭政権を支える立場にあった為、友好的な関係にあった。元亀4年=天正元年(1573)室町幕府滅亡した時点から、播磨、備前、美作三国への影響力を巡る対立が生ずるようになり、海上では石山本願寺の支援の攻防を巡り、戦いが熾烈を極めていった。石山本願寺は、古代から交通の要衝であり、海上から物資の搬入には最適の場所であった。本願寺への兵糧搬入を支援する、毛利軍側についた村上海賊と、紀州の尻喰らえ孫市こと、雑賀孫市率いる鉄砲隊を含める、毛利水軍は700~800余艘、7月岩屋に集結、淡路島を越えて大坂湾に侵入。対する織田水軍は和泉住吉に拠点をおく、和泉の淡輪(たんなわ)、摂津の花熊など大坂湾沿岸の国人たち、その規模は300余艘(毛利軍文書では200余艘)であった。しかし、雑賀一族を含め、村上海賊に関わらず、全ての海賊たちは、自己の勢力を保全する上で、戦国大名に従属したとしても、利害の不一致が生じた場合には、そこからの離反も選択肢にあった。現代にも共通する合理的な考え方である。

 天正4年(1576)7月、「第1次木津川口の戦い」では、7月淡路島を出発、堺津から木津河口に進んだところで、織田水軍と接触、戦闘は13日から14日の早朝にかけて行われ、毛利水軍、村上海賊連合軍は「関船」「小早」と呼ばれた船を駆使、焙烙玉や火矢、及び雑賀衆の鉄砲などで織田水軍側の大船を全て焼き崩し、石山本願寺に兵糧を搬入、これにより本願寺は長期持久戦に耐える態勢を整えた。ここで、大活躍を見せたのが、武吉の娘景である。景は身の丈6尺、長身から伸びた腕と脚は過剰な程に長く、長い頸の上には大きく見開いた眼、高い鼻、これも大きな口をした顔がのっていた。(令和の旅人のイメージでは、映画「バイオハザード」のミラ・ジョボビッチ)。所謂、当時の我が国においては醜女であったとされるが、大都市大坂や自由都市堺においては美人と呼ばれた。景は異邦人とのハーフであったかもしれない。この事件は、永禄11年(1568)信長の上洛以後、城を包囲中の織田軍が、外側から敵勢力に強行突破された、珍しい例で、信長にとっては強烈な打撃であった。こうして天正6年辺りまで、毛利水軍は瀬戸内における優位を保持していたが、第2次の戦いにおいて、信長が九鬼水軍や滝川一益に命じた、大筒や大鉄砲を搭載した全長22mの大型鉄甲船が7隻が竣工、大坂湾乗りだし、海上封鎖をかけた。これに対し、600隻の村上海賊は苦戦、毛利水軍とともに敗退した。天正8年(1580)浄土真宗、大坂本願寺顕如は信長と講和、新門跡教如は抵抗を続けたが、荒木村重の花隈城の落城により降伏、石山城(後の大坂城)を退き、これにより、天正4年より続いた毛利水軍の海上支援は頓挫、この戦いに参戦していた村上海賊も行き場を失った。一方、織田方も阿波三好氏を、毛利、足利陣営から離脱させるべく、調停を試みるがこれに失敗、かえって四国長宗我部氏との関係を悪化させた。これは後の秀吉「四国攻め」となる。信長四国戦略の変更により、それまでこれらの外交に関与していた光秀が、自己の地位保全を危ぶみ、謀反を起こしたのが「本能寺の変」天正10年(1582)であると考えられている。織田政権の崩壊後、巧く立ち廻って天下を握った秀吉が、海賊停止令を出すと、海賊たちは、従来のような活動が不可能となり、海賊衆としての活動からの撤退を余儀なくされ、江戸時代以降、長州藩など、生き残り大名家の、船手組に組み込まれていった。村上水軍の首領、武吉は秀吉の出す「四国攻め」に従わず、秀吉側についた毛利の一族、小早川隆景によって攻撃を受けた。攻めあぐんだ隆景はある風の強い日に能島全体を囲んだ、茅を積んだ小舟に火をかけ、島全体を火の海にして落城させたと云う。景が死闘を繰り返した「第1次木津川口の戦い」は、織田軍に圧勝した。この戦いを記した、村上武吉率いた水軍の兵法書は、「村上舟戦要法」として後世に伝わり、対ロシア戦における日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を破った秋山真之が、この兵法をおおいに参考にしたといわれる。   「江戸純情派 チーム江戸」 しのつか

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