5 「四上水」


明暦の大火後、江戸の拡大と急激なる人口の増加に対処すべく、江戸幕府は、神田、玉川のニ上水の未給水地域に対する、上水の供給を目的として、「四上水」の設置に踏みきるが、享保七年(一七ニニ)突然として廃止している。その後は埋め立てられず、灌漑用水及び水路として復活をみせている。

<亀有上水> 開設は、万治ニ年(一六五九)、延宝三年(一六七五)、元禄年間(一六八八~一七〇三)と諸説あるが、隅田川の左岸、本所、深川の旗本、御家人屋敷への給水を目的として開設、後の葛飾郡篠原村から亀有村に至る、ニ十八丁(約三㌔)の曳舟水路で「曳舟川」とも呼ばれ、四ツ木あたりでは「葛西上水」「本所用水」と呼ばれていた。しかし、この上水は給水量が不安定な上、低湿地のため汐が混じることもあって、飲料水としては適さず、享保七年廃止後は、曳舟川として農業用水や、舟運に使われ始めたが、水運は川幅が狭いため、両岸から近在の農民たちが、手間賃稼ぎに舟を曳いて航行した。四っ木から亀有にかけては、この曳き舟が盛んで、舟はザッパコと呼ばれていた。現在の墨田区曳舟通りが、この曳舟川の跡である。

<青山上水> 万治三年(一六六〇)開設、四谷大木戸の水番所あたりから分水されていた、玉川上水の分流ともいうべき幹線上水であった。給水地は青山、赤坂、麻布、六本木、飯倉、芝方面と江戸西南部にわたり、玉川上水の四上水の中でも、最大規模のものであった。明治十五年、麻布水道として復活、赤坂、麻布、四谷の一部に給水していた。

<三田上水> 寛文四年(一六六四)笹塚付近で取水され、三田、芝方面へ給水、品川辺りで目黒川に落ちていた。三田と千川の両上水は、寛文七年(一六六七)頃から水量の少ない神田上水へも助水を始め、享保七年(一七ニニ)に、四上水が廃止された後も、農民達の強い要望で農業用水として復活している。

<千川上水> 玉川上水から保谷村(現、西東京市)辺りから分流され、元禄九年(一六九六)江戸の東北方面の巣鴨辺りまで掘られ、ここから樋を使って、神田川以北の湯島聖堂、東叡山寛永寺、小石川御殿から浅草寺などまで給水されていた。工事は多摩郡仙川村の住民が担当したため、この名があるという。

享保七年(一七ニニ)八代吉宗の時代になって、以上の四上水は突然一斉に廃止が決定される。その理由として、四上水の維持管理が賄いきれなくなった事、堀井戸の普及によって、上水の必要性が低下した事などが挙げられるが、もうひとつ、現代の理論では、いや当時の理論でも理解出来なかったであろう理屈によって、十五代のなかでは家康に次ぐともされた八代吉宗が、この決定を下している。

幕府儒官室鳩巣は、「江戸の町は火事が多い。この火事が多い原因は、地脈を分断する水道(上水)が原因である」と吉宗に建議した。上水による火事誘発説である。鳩巣によると、江戸大火事の原因は、四方に巡らされた上水網によって、地下の地気が分断され、大気の息である風が拘束されて、火事が多く発生するというもので、「地気」「大気の息」などの、非科学的論拠によってこれを述べている。

東洋医学の基になっている「陰陽五行説」においては「水は火を制し、水は土によって制される」。従って、水が張り巡されていれば、火事は起きにくい。この理論からも外れた理屈が、江戸中期に堂々とまかり通ったのである。維持管理費用の削減、農業用灌漑用水の優先など、裏の政治的取引が見え隠れする突然の廃止であった;

この決定後、地気を分断しているとされる水道は、そのままその形態を留め、その後は灌漑用水や水路として再利用されている。ただ、飲料水としての四上水の活用を止めたに留まった。その結果逆にいえば、飲料水の確保が難しい地域になった処に、人間は生活出来ない。脳細胞でいえば、毛細血管が行き渡らない細胞は、壊死をおこす。壊死を起こさない為に、人間は水が飲める地域に移住、江戸はますます九尺二間の長屋への、一極集中となっていったのである。

江戸純情派「チーム江戸」

ようこそ 江戸純情派「チーム江戸」へ。

0コメント

  • 1000 / 1000