4 「玉川上水と野火止用水」
家光が定めた「参勤交代制度」により、江戸の人口は寛永期(一六二四~四三)約三十万前後であったものが、寛文年間(一六六一~七二)には約八十万人、約二、七倍にも膨れ上がっていった。溜池や神田上水だけでは、江戸の飲料水を賄いきれなくなった幕府は、承応三年(一六五四)、これよりニ、三年前から出願されていた「玉川上水」の工事に踏み切った。総奉行、老中松平伊豆守信綱、水道奉行は関東郡代伊奈忠次、工事を請け負ったのは、後に玉川姓を名乗る庄右衛門、清右衛門兄弟であった。兄弟が提出した計画書や絵図を検討、作事奉行二人と水道奉行が、六日間にわたって現地を視察調査、兄弟に工事費六千両(七千五百両の説もある)が支給され、承応三年、四月工事に着手した。
多摩川上流羽村に取水口を設け、武蔵野台地の尾根筋を巧みに引き廻して、堀割の崩れを補強をしないで掘り進むという「素堀り」によって、武蔵野台地の馬の背を巧みに取り入れながら、自然流下によって小平まで、ここで「野火止用水」を分水、小金井市、三鷹市、杉並区などを抜け、新宿区に入り四谷大木戸(現、都水道局新宿営業所)に至るまで、開渠で約四十三㌔を開削、その高低差九十ニm、ここから暗渠となって、翌四年六月、虎ノ門までの地下樋を完成、通水させている。
当初は日野からの取水を試みたが、浸透性の高い関東ローム層「水喰土(みずくらいど)にあい流路を変更、次の福生の案は、逆に堅い岩盤のため失敗、これを踏まえて、松平伊豆守家来からの助言を参考にして、羽村からの取水に着手、これに成功する。
玉川上水の水番所は、羽村、代田村、四谷大木戸の三ヶ所、大木戸の水番所で給水の水量を調節、余水は渋谷川(穏田川)に流していた。また、玉川上水の治水工事のひとつとして、川水の勢いを食い止めたり、堤防の決壊を防ぐ目的として「川倉(川鞍)」と呼ばれた、現代の土のうの様なものを堤に配置したり、「牛枠」といって、堤に植栽された樹木と川床の石を蛇籠に詰め、これも堤の補強を目的とした。
給水区域は神田上水に比べ、玉川上水の方が広い。その理由として、多摩川羽村からの取水量が神田上水に比べ、絶対的に多かった事にもよるが、その取水口の位置の高低差に関係している。羽村は海抜約百二十六mであるのに対し、井の頭の池は海抜四十五m、玉川上水が約三倍の高さから、給水をしていた為である。実際にも数字でみてみると、京王線三鷹台辺りで、両上水がほぼ平行して走っているが、玉川上水の位置は神田上水よりも、約十mほど高い位置を流れている。これが玉川上水の流域が広い事の一因となっている。
市内給水地域は、木樋によって江戸城西の四谷、麹町から芝口、増上寺辺り、更に武家屋敷や町場の成立で、人々の生活の場となってきた赤坂、青山である。また八丁堀辺りは神田上水が充分に届かない地域であったため、玉川上水がこれを補った。玉川上水の末端は、新川(霊巌島)から築地、明石町、湊町辺りで、江戸湊、上方からの下り船(廻船)の帰り船に、給水を行っていた。逆にいえば、この給水する町がなければ、江戸湊の成り立ちはなかったのである。
「四里四方 玉を流して みがく也」
玉川上水沿いの櫻はヤマザクラが多い。「小金井の櫻」は元文二年(一七三七)、玉川上水路約二里にわたって櫻が植えられ、文化文政年間(一八〇四~三〇)の頃になると、花見客でにぎわうようになった。植樹は、①櫻の花や実が水毒を自然に消す効能がある、②樹の根によって水路の護岸に役立たせる、③人を呼びよせ土地の開発につながる等の効果をみせ、「江戸名所花暦」によれば、「春の日のひかりもそひてたま河の、堤の櫻花さきにけり」とされ、また「東都歳時記」によれば、「小金井橋の両岸、江戸より七里余なり。当所の櫻は寛永の昔うえさし給ひ、そのうち享保の頃にいたりて、紀州吉野山の常樹、櫻川の両種をもって添やるる所なりとぞ。両岸悉く花木列り立て、春時爛漫たり。何れも単辨にして、特に潔白たり」としている。
「四谷大木戸」は元和二年(一六一六)設置され、寛政四年(一七九二)に廃止されているが、その頃には既に木戸は取り払われ、通行は自由であった。「大木戸」とは江戸城下町への入口という意味で、道の両側には高い石垣となっており、番屋が置かれ、突捧や指股などの警備用具が設置されていた。石垣の下を流れるのは玉川上水、ここより木樋で市中へ給水、手前は甲州道中の初宿「内藤新宿」である。
玉川上水は飲料水の他にも、灌漑用水としても使用され、寛政ニ年(一七九〇)の調べによると、羽村、大木戸間の三十三ヶ所の分水口によって、武蔵野台地の開拓に大きな役割を担っていた。
玉川上水が完成した翌年の明暦元年(一六五五)、川越城主松平伊豆守信綱が掘らせた「野火止用水」は、幅三m、延長三十五㌔あり、飲料水、灌漑用水として活用された。現、小平市西端の中島町で玉川上水から分水、東村山、東久留米、清瀬を経て、新座市の新河岸川と合流、「野火止堀」「伊豆殿堀」とも呼ばれた。昭和四十九年、都はこの流域一帯を「歴史環境保全地域」に指定している。
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