3 「神田上水」


天正十八年(一五九〇)大久保藤五郎(のちの主人、もんと)が、家康の命令により「小石川上水」を見立て、三代家光の家臣内田六次郎が開削した上水であるといわれる。水源の井の頭池から河口の柳橋まで、「神田川」の総延長㌔は約二十五、五㌔。この流れを一貫して神田川と称する様になるのは、昭和三十九年の「河川法改正」からの事で、それまでは水源から関口の大滝橋までを「神田上水」、その先の船河原橋までを「江戸川」、ここから下流部を「神田川」と称した。

「神田上水」は井の頭池を水源として、多摩郡、豊島郡など十六ヶ村を流れ、目白台の下、関口大洗堰に至る。ここまで五里、江戸の上水の中で最も早く開発されたものである。水源「井の頭池」の名付け親は、家康とも家光ともいわれ、「江戸城の御茶ノ水となり、府内の飲料水ともなる故、井の頭とせよ」と命名された事からとされる。

武蔵野東部に位置するこの地域は、地形学的にも湧水を生じやすい傾斜地で、ほぼ同じ標高に南北に揃って、北から石神井川の水源である「三宝寺池」「富士見池」、善福寺川の水源である「善福寺池」、妙正寺川の水源である「妙正寺池」などがある。このうち善福寺池と妙正寺池とを加え、武蔵野三大湧水池と呼ばれている。これらほぼ一直線に並ぶ池は、武蔵野台地の下の砂礫層を流れる地下水が、地表に現れ貯ったものである。

井の頭池には、七つの水源があったとされ、「七井の池」とも呼ばれ、旱魃でもおよそ乾くことなき、名池といわれていた。また、この辺りは江戸期を通して、将軍の鷹狩り場であり、庶民にとっても弁財天とともに、四季折々の行楽地であった。広重江戸百、六十四景「井の頭之池弁天の社」の弁財天社は、頼朝が東国の平安を祈願して、建立したものと伝えられている。

池から水門橋、三鷹台、久我山と、井の頭線に沿って閑静な道をゆくと、「甲州道中」の当初初宿であった高井戸へ着く。栄橋と和田見橋の間で「善福寺川」と合流する。この川は「遠野井」と呼ばれていた、善福寺池から上水まで、約二里余かけて流れ込んでいる。かって池の丘には、善福寺と万福寺というふたつの寺があったが、地震により崩壊、現在ある曹洞宗善福寺は、もともとは福寿庵という寺が、改称したものである。夏はハスの花が見事である。

下流の「小滝橋(姿見の橋)」と対となっている、「淀橋」の別名は「姿見ずの橋」という。この名の由来は、①柏木、中野、角筈、本郷の地境に位置する橋のため、「四所橋」と呼ばれていたのが、転訛して淀橋となったとか、②水車の廻っている風景が、京の淀に似ているからとも、③当地が武蔵国豊島郡余戸(あまるべ、よど)郷にあたることからともいわれる。この地には、新宿追分で甲州道中と分かれた、青梅街道(成木街道)が通っている。

「江戸名所図会」では、淀橋水車として紹介されており、神田上水には直径一丈八尺(約四、八m)ほどもある、大きな水車を回す小屋があり、嘉永六年(一八五四)、ペリー来航の黒船対策として台場を建設、大砲に使用する火薬の製造のため、この水車が活用されたが、慣れない作業により、翌七年には大規模な爆発を起こしている。台場の建設により多くの魚が逃げた事を、我が国第一号の公害とするならば、この事件は第ニ号となる。

早稲田通りに架かっているのが「小滝橋」、この付近に堰があり、流れが小さな滝のようになっていた事がこの橋名に因む。この橋の名の別名を「姿見の橋」。昔、ここに住んでいた中野長者の娘が、身を投げたのが「姿見ずの橋(淀橋)、その遺体が見つかったのが、約半里下流の姿見の橋(小滝橋)だとされている。

「妙正寺川」は、水源を妙正寺池とし、神田川合流地点の辰巳橋付近の高田馬場分水路まで、途中、井草川、江古田川を合流、流路延長約九、七㌔、流路面積ニ十一、四㌔㎡の一級河川である。この辺りの地名を「落合」と称するのは、神田川と妙正寺川が合流、即ち落ち合う場所であるからとされる。

ここの風景は名所江戸百景や江戸惣図にも描かれており、絵の中心部分が合流地点を伺わせる。「此の地は蛍に名があり、形大にして、光も他に勝れたり」とあり、水がまだ澄んでいた江戸の頃は、蛍の名所であった。団扇や網で採る、蛍狩りの名所は他にも、谷中の蛍沢、麻布の古川や淀橋、王子、目白下、江戸川など随所にあった。現代では蛍目したギャルたちが、夜の巷を闊歩している。

武州豊島郡下高田村の神田川流域に、各々「高田、戸塚、落合」と称する一枚岩があった。現在のJR高田馬場辺りから水路が曲折する処に、川の中に長さおよそニ十八×十四mもある巨石が横たわり、移動が困難であったため、この岩の左右を水筋として上水とした経緯がある。晴れの日が続いて水嵩が減ると、亀の甲羅のような形の岩が現れてくる。遊び好きな江戸っ子たちはこれを見逃さない。川の中の岩の上で宴会がはじまり、春は花吹雪が体を纏い、夏は水しぶきでのぼせた頭を冷やし、秋は紅葉を盃に浮かべた紅葉酒、冬は粉雪舞う水墨画を愛で、下り酒を熱燗で飲み友と酌み交わした。ここを江戸っ子たちは「曲水の雅宴」と呼んだ。

明治通りを越して、都電荒川線の踏切を渡ると「面影橋」に出る。電車はここで大きく左折して、早稲田で三ノ輪からの走行を終える。面影橋は古来より、於戸姫伝説で知られる橋で、「俤橋」とも書く。江戸名所図絵では、橋の両側に池があり、橋から覗くと水面が鏡のようであったという。この橋の北側に「山吹の里」の碑があり、春になると道灌ゆかりの山吹の花が、神田川の櫻並木とコラボして、黄金色の色どりを添える。

関口大洗堰のやや上流「駒場(留)橋」付近に、芭蕉がまだ三十四、五歳の延宝五年(一六七七)から八年冬まで、伊賀上野から江戸へ出てしばらくの間、俳諧に精進しながら、上水の改修工事に従事、その頃住んでいた「龍隠庵」がある。この庵は芭蕉三十三回忌の享保十一年(一七ニ六)に、弟子たちが芭蕉の像を祀り「芭蕉堂」とした。のちに「五月雨塚」となっている。その近くに上総久留米藩黒田家の下屋敷があり(明治以降椿山荘)、右岸には早稲田の田圃が拡がっていた。

江戸への上水の取水口は、文京区関口にある大滝橋付近である。神田上水と神田川の水とを、所定の水位以上の水として、放流させる長さ約十八m、巾十ニ、六mの石堰を設けた為、「関口」と名付けられとも、昔は奥州道中の関が、また西の方に鎌倉街道の宿坂の関があったともいわれ、江戸期は豊島郡狭田領であった。

ここに堰を造った訳は、ここまで江戸の海の潮が、入り込んだ為である。ここから先の「江戸川」と呼ばれた区間は、あくまでも上水の余水(吐水)を、流すための流路として捉えられてきた。上水は関口の取水口から、神田川の左岸に平行して開削された水路を流れ、小石川の水戸屋敷内から、神田上水懸樋(水道橋)で神田川をまたぎ、市内に入った。

現在の「水道橋」の語源になった、神田川に懸っていた木樋を「お茶の水懸樋」「万年樋」と呼んでいたが、御府内備考によれば、完成は万治年間(一六五八~六一)の頃だとされ、その後度々修理が重ねられ、嘉永ニ年(一八四九)の架け替え時の記録によると、長さ約十間、内法幅約六尺、深さ約五尺、銅張りの屋根がついていたという。

懸樋からの給水は、駿河台や小川町一帯であり、一方は神田橋上流部で、旧平川の河底を潜らせた水路トンネルを使用、江戸城東部の大手町、本町、京橋、本材木町から浜町一帯を給水、神田上水の木管の総延長、六十六、三㌔、井戸数三千六百六十三ヶ所、江戸の人口寛永期(一六二四~四三)約三十万、寛文年間(一六六一~七ニ)約八十万、享保十八年(一七三三)になると町人だけで五十三万六千三百八十人を数えた。これだけの人口を両上水で賄っていった。

大まかに区分けすると、十九世紀前半頃は、京橋川を境にして、別説では日本橋川を境にして、北側が神田上水、南側が玉川上水の給水地域で、両上水は潜樋により結ばれていた。神田上水、玉川上水を合わせると総延長は一五〇㌔m、当時、給水面積、給水人口ともに世界最大規模を誇った。またその頃江戸の他にも、上水設備を整えた地方都市は、赤穂、福山、高松、水戸の各水道、桑名御用水があった。

「江戸中を のたくり廻る 井の頭」

余水として「江戸川」に流された水は、「神田川」と流れを変え、水道橋からお茶の水へと下る。「聖橋」辺りで「茗渓」「小赤壁」と呼ばれた谷は、元和六年(一六二〇)伊達藩祖正宗が、神田川を大川へ流し込むために、本郷湯島台と神田駿河台を南北に貫き、万治ニ年(一六五九)四代綱村の時代に拡幅、完成、後に「仙台堀(伊達堀)」といわれる掘割である。この拡幅によって、牛込方面へ通ずる航行が可能になり、物流の拠点となる河岸が造られ、市街地の促進ともつながった。

御府内備考によれば「今、神田川といふは、船河原橋(俗にどんと橋といふ)辺りより、お茶の水及び柳原堤外を経て、浅草川に経るまでの呼び名なり。松平陸奥守綱宗に命じて、船入りの川(仙台堀)に掘割せ給ひし」とある。

神田川が大川へ注ぎ込む第一橋梁は「柳橋」、創架は元禄十一年(一六七八)とされ、別称「川口出口橋」「矢の蔵橋」、この橋上流右岸は、神田川の瀬替えによって、度重なる洪水から土地を護るために、享保年間(一七一六~三六)、柳を植えさせた事から「柳原土手」と呼ばれた堤が続いていた。柳橋は以降、新吉原や深川への船便の拠点となり

「辰巳へも 北へもなびく 柳橋」、「あぶなくも 無いのに船頭 抱きたがり」

と、詠まれた。

こうしてみると「神田上水」は、水源から江戸までを上水として、通して開削されたものではなく、武蔵野に流れる自然流に水源を求めてそれを利用、引かれたものと考えるのが妥当である(東京市編)としている。

ここで付近住民の「水銀」の負担が問題となってくるが、付近の住民は神田上水が出来る以前から、井の頭池の水を引いて、飲料用水、灌漑用水として利用してきたので、水銀は納めていない。神田上水はこの無料の用水を使用して、上水として開発されたものである。従って付近の住民にとっては、この上水はもともと自分達が開発、利用してきた代物で、出来ました、水銀を負担しなさいとなると、それは住民にとって新たな負担となり、大きなお世話な事で、甚だ迷惑な事となる。ある一定地域にはメリットになる行政が、他方には負担になってくる事は、行政のみならず、税負担、一票の公正さなど、現代社会でもよく見られる事である。

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