2 「牛が淵/千鳥が淵/溜池」
江戸初期、神田上水などの水源地から、飲料水を引き込む施設が完成する前は、雨水や湧水を堀や池に貯水、これらを飲料水に充てていた。
「牛ヶ淵」は、家康の江戸入り直後に、飲料水の水源地として造られた、田安門から清水門前の土橋で、水位を保っている中堀である。田安門から九段下までの、ゆるやかな傾斜地にあり、その下の平河入江の海岸線、地質学的には日本橋川左岸の河岸段丘と、武蔵野台地東麓部の湧水線の間に留められたものを、堀に利用したものとなる。
「淵」と「掘割」との違いは、流れていた自然の川が、せき止められて出来た自然の水面を淵と呼び、「局沢川」がせき止められたのが「千鳥が淵」である。「日本橋堀留」も同じ工程である。ここは旧石神井川の上流部分を埋め、下流部分を埋め残し、掘割として利用したもので、湿地帯を計画的に縄張して埋め残した人工の川(堀割)とは、地質的に異なる。因みに、牛が淵の名称の由来は、その淵の形状からきたものや、「昔、銭つみたる車、牛と共に落ち、牛も車もついにあがらず」との故事によるとされる。
田安門から東の淵が牛ヶ淵、西方の水位が高い淵が、「千鳥ヶ淵」である。現在この水位の差は、二つの淵の下に水門が設けられ、ここで調整されている。千鳥ヶ淵は開府後、麹町台の番町から局沢川と呼ばれていた川など、四本の河川を水源として、半蔵門と田安門の高土橋でせき止めて造られ、入府当初飲料水を貯める池として機能、余水は本丸と西の丸の間を通り、日比谷入江に流れ込んでいた。
読んでいても楽しい、千鳥が淵の名称の由来は、形状が千鳥が羽を拡げた様子からとも、Ⅴ字型の淵が千鳥の飛ぶ姿に似ているからともされる。春になると対岸の北の丸公園の石垣の櫻と競い合い、ソメイヨシノや山桜など、百数種の櫻が一斉に咲き乱れる、都内屈指の櫻の名所となる。
「溜池」は、慶長十一年(一六〇六)、浅野幸長らによって飲料用水源とともに、外堀の一部としての役割を目的として造られた。この池は汐留川の潮水が、上流に入るのを防ぐため、防潮用の河口堰を造った結果、出来た人造湖で、池の南の土手には、補強のために成長の早い桐が植えられたりしていた。また、形が瓢箪の形に似ていたため、瓢箪池とも大溜ともいわれ、二代秀忠が琵琶湖の鮒や、淀川の鯉を放流したともいわれている。
溜池は地誌によると、山王の麓で東は虎ノ門、あたらし橋、汐留に至り、西は赤坂門までつづく大沼であった。現在の、港区赤坂と千代田区永田町の間の外堀通り辺りで、当時は赤坂の渡し(現在の永田町二丁目と赤坂三丁目を結ぶ)と呼ばれた渡しまであり、「溜池上水」と呼ばれた上水が、江戸の西南部を給水していた。
万治年間(一六五八~六一)、「青山上水」が完成するまで、上水として利用されていたが、汚濁の為下水道となり、夏には蓮の花が見事に咲いたという。明治八年頃から、水量が減少して水質汚染が進行、次第に少しずつ埋立てられ、明治四十三年完全に埋め立てられ、姿をけした。
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