第5章 江戸上水記

①江戸の水道網と水銀 

 天から降った水は、雨となって地表に降り注ぐ。時には渇いた大地を潤し、恵みの雨となって、花や木を育てる。また、時には激しく地表を洗い流し、激して地形を変える。その水がせせらぎとなり、泉となり、河となって大海に注ぐ。古来より人間は、水辺に生活してきた。その町の経営者(領主)たちにとって、飲料水の確保は、その町の経営課題の中で、最重要課題であった。江戸についてみれば、家康が入府の頃、道灌が築いた城の下は、日比谷の入江が入り込み、その向こう側には、汐の満ち干で海岸線が変化する「日本橋波蝕台地(江戸前島)」が横たわっていた。

 その江戸の町の建設が、本格化するのは、関ヶ原の戦いに勝ち、江戸が開府されてからの事である。それ迄は徳川家の自前工事、以降は全国の大名に軍役としてやらせた「天下普請」と呼ばれるものである。「千石夫」制度により、江戸の街は、城前の海岸を埋め立て、陸地を増やしながら、首都としての体裁を整えていったが、この埋立地に生活する人々は、飲料水の確保に苦しんだ。慶長見聞録によると、「今の江戸町は、十ニ年以前までは大海原なりしを、当君の御威勢にて南海を埋め、陸地となし町を立給ふ。然るに町ゆたかに栄ふるといえども、井の水へ塩さし入、万民是をなげく」の状態であった。埋立地に井戸を掘っても、塩混じりの水が出るだけであった。そこで必要と考えられたのが、飲料水を常時確保出来る上水設備である。江戸の市民と、江戸物流を担う廻船の飲料水を確保する事が、人口が急拡大する江戸にとって、最大の急務となってきたのである。

 天正十八年(一五九〇)、家康入府の頃は「東の方平地の分は、ここかしこも汐入りの葦原にて、町屋敷を十町と割り付くべき様もなく、さてまた西南の方は、平々と葭原武蔵野へ続き、どこをしまいというべき様もなし」岩淵夜話。同年、家康の命令により、大久保藤五郎(のちの主水)が、小石川に水源を求め、神田方面へ通水する「小石川上水」を造り上げた。これが後の「神田上水」の原形となる。慶長十一年(一六〇六)虎ノ門から赤坂にかけ人造湖「溜池」造成。寛永六年(一六二九)神田上水竣工、三代家光、井の頭池を命名したと云われる。承応元年(一六五二)玉川上水を計画、同三年四月四日工事着手、十一月十五日完成。万治ニ年(一六五四)亀有(本所)上水開設。この年より水銀(水道料金)徴収開始。同三年、青山上水開設。寛文四年(一六六四)三田上水開設。同七年、神田上水に玉川上水の水を引き込む。延宝五年(一六七七)芭蕉、関口で上水普請に従事。元禄九年(一六九六)千川上水開設。享保七年(一七ニニ)六上水のうち、四上水を廃止。元文ニ年(一七三七)小金井玉川上水堤、約二里に桜を植樹。安政ニ年(一八五五)安政の大地震により上水の石垣、木樋が大破損。十万戸焼失。明治元年、水道事業は東京府に移管。同三十ニ年、現在の西新宿(角筈村)に淀橋浄水場が完成。同三十四年、改良水道により神田上水、玉川上水廃止。昭和四〇年、淀橋上水場廃止、同六十一年、玉川上水に清流復活。

1「江戸水道網と水銀」

 樹齢ニ五〇年の一本のブナの木は、約八tもの水を蓄えられるという。残念ながら家康が開いた江戸の街は、葭と葦が繁り、水鳥が遊んでいた低湿地であった。すいどの水で産湯を使って「おぎやぁ」と産まれたのが、江戸っ子の自慢のタネであった。江戸幕府は増加する江戸の市民の水に対処する為、飲料水の確保に取り組み、溜池の造成に始まり神田上水、玉川上水、次いで四上水などの上水道が整備がされていった。先に述べた様に、井戸を掘っても塩が混じり、市内の河川(掘割)も、潮の干満の影響で、飲料水にも灌漑用水にもならなかった。満潮時では、隅田川は河口から二里半の汐入橋、旧石神井川では不忍池、神田川では関口あたりまで汐が上がってきたという。この為、関口で堰を設け、上水に海水が混ざる事を阻止する対策を講じた。ここは霊岸島水位観測所の地点から、約二里(十〇、三㌔)となる。従って関口に隣り合った早稲田では、ここより上流でないと田圃にはならなかった。こうして汐の混ざらない真水を、関口で分水して、水戸家の屋敷内を潜り、神田川を懸樋で跨ぎ、江戸の街に配水したのが神田上水である。

 神田上水は、小石川水戸屋敷までは開渠、府内に入ると「樋」と「枡」によって形成され、地中に樋(地中管)を通し、枡(井戸)を置く、河、堀の水底を潜る所は「潜樋」といい、また、橋の下に沿って対岸に渡る所を「渡樋」「懸樋」といった。本樋からの水は、「呼樋(よびとい)」と呼ばれた枝管を経て分水され、屋敷や長屋の井戸へ配水された。大体一町について、八から十ヶ所位の割合で「上水井戸、(溜めます)」が設けられ、飲料水、消火用水としての共同井戸として、ここより水を汲んで生活を営んだ。この他に、水量を調整する為の「吐樋」を設置、玉川上水は渋谷川(穏田川)などに放流した。また防火の為に、一町に八ケ所程度作られた「用心井戸」も設置されている。樋の素材は松や杉、桜の木材や、石材、竹材も使われた。木材を「コ」の字状にくり抜き、これにフタをつけて合わせ、継ぎ目には檜の内皮を砕いた、槇皮(まきはだ)を絡めパッキングとし、舟釘で止め、釘の頭には漆を塗って錆止め、樋と樋の繋ぎ目には、銅板で囲い水漏れを防いだ。大部分は一尺≒30㎝から一尺三寸か四寸、石材で通す所を「万年樋」、樋がなくとも流れる所を「白堀」または「素堀」といった。 

 江戸期の水道料金は、「水銀」といわれ、町方は間口(小間割)一間につき十六文、支払う人間は地主や家主、上水の樋毎に決められた組合は、三個所(ex人形町は水道橋組、余水は浜町川や菖蒲河岸の吐口)であり、地中の木管、樋、枡などの修理や水銀の支払をした。長屋の住民である賃借人の水銀は、その店賃に含まれていた。神田上水は、ニ小間につき銀ニ分ニ里、武家方は神田上水、玉川上水とも石高のよって、例えば五十万石以上では、百石につき銀一分三厘と決められた。これらの他に、玉川上水路の村々は、上水を用いる村を単位として、金若しくは米の納入を負担している。上水施設が設置されなかった、江戸期の深川地域は、江戸城内の余り水を辰の口から内堀に落とした水を、水舟の桶に受け、大川を渡ってきた水売りから購入している。一荷十ニから十六升で四文、これとは別に、夏場になると府内の水売りは、砂糖や白玉を混ぜ「冷ゃこい」と掛け声あげて売り歩いた。「銭金が わく土地水を 買ってのみ」

 神田上水、玉川上水などの水路は、ほとんどの地域で開渠であった為、衛生面からの水質の保持には、幕府も気を配り、羽村、代田、四谷大木戸などに、水番と呼ばれた見張り役人を置き、高札を貼って禁止事項を列記し、塵や芥の除去に努めた。御法度のいくつかをあげてみると、水路両側三間は保護地域とし、苗木の植栽や草刈り禁止、洗い物、魚獲り、水遊び、ゴミの投棄も勿論禁止とした。また、上水沿いには、水の浄化を目的として、山桜を植えて、花見客に土手を踏み固めさせ、堤の強化を図り、客相互の看視により、水場の安全を確保している。一方、町組織としての取り組みも決められ、金杉水道町は、承応年間(一六五二~五五)から、神田上水の定竣を命ぜられ、金杉村から分かれた町である。小日向水道町は、村内の町屋が上地されたため、水道堰地を代地として、明暦ニ年(一六五六)より、上水役を勤めた町で、ここには江戸府内と府外を定める「傍示杭」があった。また、関口水道町は、神田上水の南側に位置した町で、正保元年(一六四四)幕府領となり、小日向水道町と共に大洗堰の水門の管理を担当、「差蓋揚卸(さしふたあげおろし)」の役を勤め、後に関口村に水番人が置かれるようになる。当時は、神田上水から水を引くための、水車が置かれていた。因みに御三家は、水の番人の役割を担い、水戸徳川家は神田上水の関口近くに上屋敷を構え、尾張徳川家は上水口の監視を目的として、市ヶ谷に上屋敷を構え、紀州徳川家は溜池辺りに、赤坂の中屋敷を構えている。さらに江戸城の警護面から捉えると、武功派の家臣たちには、大手門に酒井家、外桜田門(小田原口)は井伊家、内藤新宿(甲州口)は内藤家、上野池之端(日光、奥州道中)には榊原家の屋敷など、譜代の大名たちが置かれていた。

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