3 汐留川/築地川/鉄砲州川

「汐留川」

 「汐留川」は、新宿区四谷一丁目からの小川が、鮫ヶ橋坂下から迎賓館と、赤坂御用地の間を流れ弁慶堀に合流、ここで清水谷の小河川とも合流して、虎ノ門から幸橋門と流れていた。幕府は第三次天下普請で、虎ノ門辺りで堰を造り、海からの汐の出入りを遮断、結果出来たのが「溜池」である。

この貯水池は、江戸城南側の外濠の役目を担うとともに、まだ、市街化が進まない時代においては、江戸の上水道の役目もなしていた。次第に人口が増え市街化が進むにつれて水質が汚濁、承応三年(一六五)玉川上水が開発された。この溜池から下流は、「虎ノ門橋から新シ(あたらし)橋)、幸橋門(土橋)、難波橋(中の橋、南大坂橋)、芝口橋(新橋)、汐留橋、浜御殿大手門橋」で、江戸の海につながっていた。

汐留川は、正保年間(一六四四~四七)以前は、外濠(汐留川)が三十間堀に繋がり、海は堤防で仕切られ、土橋で潮留になっていたからだといわれ、(港区史)また、(府志科)によれば、汐留川と三十間堀を合わせて新橋川として、河口まで十ニ町、川幅十間だとしている。現在の汐留川は、浜離宮の西側から南側に流れを変え、隅田川に注いでいる。

幸橋門は日比谷入江が完全に埋立てられるまでは、江戸城としての「芝口」であった。将軍が増上寺の参詣をするための、御成道の出入口であった。因みに上野寛永寺へは、常盤橋から、筋違橋、下谷へと進んだ。

慶長九年(一六〇四)、幕府は街道の起点を日本橋と定め、この時点で出雲町と芝口一丁目の間を流れていた、汐留川に架けられたのが「新シ橋、新橋」である。

芝口御門が造られたのは、宝永七年(一七一〇)、その前年五代綱吉が死去、家宣が六代を就任、それを祝って朝鮮から通信使が来日、幕府は威信と景観改善のため、新井白石が新造した、枡型をもった見附である。

川の北岸には土手が築かれ、門内の広さは南北約二百五〇m、花椿通りから八丁目の南端迄、東西は金春通りから八丁目の東端まで約二百m、合計約五万㎡(約千五百余坪)を有したが、享保九年(一七二四)正月十九日、築造からわずか十四年で焼失、以後再建されず、橋の名も元の新橋に戻り、出雲町南部は南(芝)金六町となる。この時期になって、淋しい職人の街であった銀座の街もやっと市街化されてくる。

「汐留橋」は木挽町七丁目と芝口新町をつないでいた。土佐藩士であった後藤象二郎は、明治政府から長﨑の高島炭鉱(軍艦島)を当時の金、五十五万で払い下げを受け、明治七年、蓬莱社を設立、汐留橋を石橋に架け替え、「蓬莱橋」と改名した。秦始皇帝が夢みたように、会社の未来永劫を夢見たのであろうか。

このようにして、銀座を水の街にしていた、外濠川(昭和二十五~四十二年)、三十間堀(昭和二十七年)、京橋川(昭和三十四年)、汐留川(昭和二十九~三十八年)それぞれ埋立られ、敗戦の瓦礫処理、オリンピックによる高速化によって、江戸の遺産、水の都の貴重な姿が消えていった。東京の人口は一千万台を越し、環境問題が表面化、昭和四十五年、八月二日から歩行者天国が始まる。

「築地川」

「築地川」は築地に流域を持つ掘割の総称で、河川法上では東京湾に注ぐ単独水系の二級河川である。明暦大火後、築地一帯が埋立てられる時点で、建設された水路が築地川である。江戸初期、明石堀から分流、入船橋から土佐藩中屋敷(中央区役所)から左折、浜離宮北側を通って、ここから現在わずか〇、七五㌔mの水面を残して、隅田川に注いでいるのが本川である。

「南支川」は〇、四三㌔m、聖路加病院辺り(築地七丁目一番先)で南に流れ、備前橋、門跡橋など、元浅野家上屋敷跡から本願寺東側を流れ、小田原橋先で東支川に合流していた。流れの先が南を指しているから南支線という。

一方「東支川」は、采女橋から、築地四丁目と五丁目の間を抜け、波除神社の傍に架かっていた海幸橋から隅田川に注いでいた掘割である。右岸四丁目には、江戸期安芸広島藩の下屋敷や、松平定信が造らせた「浴恩園」があった処で、明治になり、海軍関連の施設がおかれ、海軍兵学校、軍医学校があった。震災後の昭和十年に日本橋から魚市場が、京橋から青物市場がここに移転してきた。

浴恩園は庭園造りが好きな定信が、寛政の改革後引退して、築地川東支線西側に造った庭園である。名の由来は、徳川家の恩に浴するといった意味合いで、外を流れる大川の水を引き入れ、潮の干満の差で風景が変化するよう、工夫が凝らされていた。

倹約を旨とした「寛政改革」に沿った、庭造りになったのか、大名の見栄で豪奢な造りであったのか、二千二十年、オリンピック後の再開発による調査が待たれる。文政十ニ年(一八二九)三月、下町の繁華街を全焼した江戸大火が発生、ふたつの池だけが残った。同年五月、定信七十二歳で死去。

明治になってこの地は帝國海軍が一帯を使用、大正十二年の震災後は、日本橋から移転してきた魚市場と京橋からの青物市場合同の中央市場となる。

震災後、楓川と築地川本川を結ぶ連絡運河が造られ、新金橋、新富橋と我が国でも珍しいY字型の三吉橋がかけられた。楓川からのUの字型の高速道路が、連絡運河を通り、そのまま築地川を同じ型式で、羽田方面に進んでいる。

「鉄砲州川」

 この川は隅田川を河口とし、本湊町(湊二丁目)と船松町(湊三丁目)の間から明石町を抜け、明石堀(築地川)に合流していた、約八百mの掘割であった。現在は聖路加国際病院とガーデンの間の昭和四年、震災の瓦礫処理のため、昭和四年に埋立てられ道路になった、鉄砲州通となっている。

嘉永六年(一八五三)ペリー来航、安政五年(一八五八)日米修好通商条約調印、明治元年築地に居留地が開設され、治外法権の時代が、明治三十ニ年の撤廃まで続く。欧米列国は、先に開かれていた神奈川(横浜)、神戸、長﨑、新潟、函館に加え、江戸、大坂にも開港をせまったが、明確な回答が得られないまま幕府は崩壊した。

代わった明治政府は、築地を居留地として開放したが、既に横浜が開港されており、河口のため土砂が溜まり、大型船の航行が困難であったため、築地は貿易港としての性格より、大使館、教会、ミッションスクール、病院などが集まる町としての、性格が強いものとなっていった。

ただ、居留地向けの物流のため、明石掘にあった寒橋の隅田川沿いに、明治二年「東京運上所」が設けられ、荷揚品の関税が、横浜との誤差を避けるため、横浜裁判所との間三十二㌔mは無線で結ばれた。

明治五年には東京税関に発展、同三十二年、治外法権が撤廃され居留地が消えた年、岩崎弥太郎の屋敷となり、昭和六年から治作となっている。この辺りから「月島の渡し」が対岸と結んでいた。

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