2 外濠川/楓川/舟入堀/八丁堀/三十間堀/京橋川

「外濠川」

 慶長十一年(一六〇六)日比谷の入江を埋立、この為入り江の奥に流れこんでいた「平川」の水を、水路を造って江戸の海に流し込む必要が生じてきた。この新しい水路を「外濠川」という。この開削については、入府から開府までの間、平川の移設の時に、開削された説と、日比谷の入江の埋め立てと併行して、造られた説と二説ある。西側は大名小路、東側は城辺河岸などの、河岸地や町人地となった。

 家康はこの外濠川に以下の役割を与えた。 ①江戸前島の尾根に降った、雨水の排水路として使用 ②その水路を輸送用として用いる ③同時に江戸城の防備、外堀としての機能をもたせる事などであった。

 外濠川は、江戸城の堀のうちの、外側のものを総称した呼び方である。浜御殿から右廻りに辿ると「御成門~虎lノ門~溜池~赤坂門~四谷門~市ヶ門~牛込門~小石川門~浅草門~両国橋~(大川利用)~永代橋~浜御殿」とぐるり江戸城を囲んでいた。

 また、小石川門近くの水道橋近くの三崎橋から、神田川と分流した外濠は、「一橋門~神田橋~常盤橋~呉服橋~鍛冶橋~数寄屋橋~新幸橋」から汐留川に合流していた。現在の首都高八重洲線地か車道とほぼ相当している。戦後外濠川が埋め立てられた結果、一石橋をくぐった水は九十度左折、日本橋方向へ流れ込む様に瀬替えさせられた。

昭和三十九年の「河川法改正」以降、三崎橋から一石橋で左折、豊海橋で隅田川に合流する川を、「日本橋川」と呼ぶ。それまでは、三崎橋から土橋までは外濠川、一石橋から豊海橋までを日本橋川と呼んでいた。

 戦後まもなくの昭和二十四年、GHQによる戦災の瓦礫処理のため、呉服橋から鍛冶橋までが埋め立てられ、次いで昭和二十九年から三十一年にかけ、山下橋から新幸橋辺りを埋立て、昭和三十四年には約二、三㌔m、ほぼ全域が埋立てられた。

 この跡地はJRや首都高、商業施設などに、転用されているが、もとの水面に行政の異なる境界がある場合は、すべて「所属未定地」となり、改めて新境界線を定める。なかなか確定しない場合は「ゼロ番地」か「無番地」となる。

 この様に外濠川は、戦後の瓦礫処理のために、埋めたてられたが、戦前の昭和十一年頃、東京市監査局都市計画課編の「河濠整理計画」(京橋図書館蔵)によると、その計画の目的は「交通上価値鮮ク、史蹟上存在ノ影響薄ク、衛生上害アリ、美観上価値ナキ外濠ハ現状ノ侭存続スルヲ許サズ、之ガ改善ノ急務ナルヲ認ム」以下略。

 読んでいて段々腹が立っていく計画書である。「鬼平」でお馴染みの池波正太郎氏に云わせれば「江戸の何たるかも知らない、田舍の木っ葉役人どもが何を勝手な事をほざくか、こう云う役人どもが国を滅ぼすのだ」と聞こえてくるようである。

 車社会だから水上交通は要りません、田舍で受験勉強ばかりしていたので、江戸の歴史は知りません、我々の管理が悪く水が臭りました、何の手入れもしてきませんでしたので、見栄えは悪いです、と自らの見識のなさと、仕事上の怠慢を棚に上げて、現状のまま存続させる意味がない、だから埋めてしまえ、という傲慢な考え方が、江戸時代の英智と遺産を喰い潰して、緑と水辺のない、騒音と埃と利益だけの街に、東京を変えていった。それから約三十年後の東京オリンピックで、日本橋や他の掘割で、同じ悪の連鎖が繰り返された。

「楓川」

 「楓川」とこれから述べる「三十間堀」は、前島の東側の水際に位置、家康が目論んだ江戸前島の歴史上の埋没化と市街化の一翼をになった堀割である。八丁堀地区が造成された際に埋め残された、約一、四㌔mの水路が楓川であり、西岸は道三河岸から移転してきた「本材木河岸」、東岸には「楓河岸」があった。

日本橋川を上り、江戸橋手前で左へ繋がっている掘割が楓川であり、最北端の橋は「海運橋(海運橋)」この名のいわれは、橋の東側に幕府の船手頭(海賊奉行)、向井将監の屋敷が置かれていた事による。現在、海運橋の親柱は元掘割の北側におかれ、そこを越した南側に明治になって、渋沢栄一が屋敷を構えている。江戸期この辺から先は、商人や職人が多く住み、川岸には楓河岸や材木河岸など、多くの河岸が置かれ、蔵が建ち並んでいた。

「千代田橋(永代通り)」を越し、坂本小学校の傍に架かるのは「新場橋」、延宝二年(一六七四)、この橋の西詰に新肴場が誕生、日本橋の「官」に対し、「民」で運営した。

「江戸橋を くぐらぬという 初鰹」

紅葉川跡(八重洲通り)に架かるのは「久安橋」、「久」の字は松平越中守の元の名称が「久松家」だったことにもよるとされている。松屋町と因幡町を結ぶ「松幡橋」を過ぎると「弾正橋」である。江戸初期東詰に、島田弾正の屋敷があった事による。この橋と京橋川の白魚橋、三十間堀の真福寺橋を合わせ「三つ橋」という。東からの「八丁堀」と水の十字流を構成していた。

 楓川は昭和三十五年から、埋め立て開始、羽田方面を結ぶ首都高一号線となり、四十年には消滅している。流れていた川の水を排水、川の三面をコンクリートで補強した、結果の高速道路のため、今までの橋の下は、水の流れでなく、車の流れに変わっただけの話であった。これらの橋は「跨道橋」と呼ばれ、担当者は一連の工事を「埋没」と表現した。江戸の資産を埋没させたのは、安易な発想をした当事者であり、何の拡大考慮もないまま、手間を省き転用しただけの仕事であった。

「舟入堀」

 慶長九年(一六〇四)、最初の天下普請が発令され、西国大名三十一家に以下の命令が下された。 ①石綱船三千艘(実際はそれ以上)の建造 ②その船は百人持ちの石(一m×二m角四方)ふたつを、伊豆半島東海岸から、江戸迄運べる規模のものである事 ③その船で月に二往復運搬をする事である。

西国とは近畿地方以西、中国、四国、九州地方を指し、旧豊臣家恩顧の大名たちの領土であった。因みに石綱船とは、石を移動、運搬する時に使う綱(ロープ)の巻き上げ機(神楽桟)が備えられている船の事である。

 慶長十六年(一六一一)、二代秀忠江戸城修復のため、舟入り堀の計画を発表、翌十七年、安藤対馬守を駿河の家康の元に派遣、この件に対し裁可を受ける。現在でいう江戸橋JCから、京橋ランプまで約一、四㌔mの区域である。江戸幕府は当時の土木技術では、何もない水面の海岸に、埠頭を建造する事は不可能であったため、江戸前島の土地を開削する事で、埠頭の役割を担わせたのである。

 現在、八重洲通りになっている「(楓に対して)紅葉川」は外濠から中橋広小路(現中央通り)まで、延宝年間(一六七三~八一)埋立、残り東半分も天保三年(一八三二)に埋立られ、これにより、既に他八本が、元禄三年までに埋め立てられていた為、全ての舟入り堀は姿を消した。

「八丁堀」

 京橋川の下流、白魚橋の東の川筋(三っ橋)から、中ノ橋を潜り、稲荷橋の先で亀島川(大川)に注いでいた掘割である。明治十三年になって、楓川に対し「桜川」と名づけられ、昭和三十五年から四十四年にかけて埋め立てられている。

 慶長十七年(一六一二)、江戸城修復のために舟入り堀の建設が始り、そのクシ形の基幹水路になり、日本橋川と京橋川を結んだのが「楓川」である。同時期に京橋川を更に南下させ、江戸湾(江戸湊)に結んだのが、長さ八丁(一丁≒百九m)、川幅二十二間)の八丁堀である。

江戸初期、楓川の両側は寺町、明暦大火以降、与力同心の拝領屋敷となり、それぞれの屋敷が与えられ、ここから南北奉行所に通っていた。この掘割の名称の由来は、勿論その長さが八町であった事にもよるが、当初この辺りの地主が、家康の生誕地岡崎、八丁堀の出身であったからとも云われている。

八丁堀(桜川)は、西から「新桜橋~桜橋~中ノ橋~八丁堀橋~稲荷橋」をくぐって江戸湾に注いでいた、外港(江戸湊)と内港(河岸地)を繋ぐ、重要な役割を果たしていた水路であり、江戸期においては、外国船や幕府を脅かす反対勢力の船が、侵入するのを防止する為、河口には船奉行向井将監の屋敷兼船番所が、楓川北側から移転、この辺りは将監河岸と呼ばれるとうになった。

「三十間堀」

 慶長十七年(一六一二)、楓川や八丁堀と同じ時期に、舟入り堀を整備する為、西国大名に命じ、京橋川と汐留川を結び、楓川を延長させた「三十間堀」が建設された。江戸前島の突端汐留地区から、東側前半部分の地域の海岸線に、護岸用の石を並べて埋めたて、楓川同様、先の海岸部分を埋め残して造った水路である。

 白魚橋の東から南へ分流、現在の中央通りと昭和通りの間を平行して、銀座一から八丁目を横断、汐留橋(蓬莱橋)の北側で、汐留橋に流れ込んでいた。堀の東側には、尾張や紀伊家の蔵屋敷、京極、加藤、松平家の大名屋敷があり、東豊玉河岸は、築地への物資供給基地、西豊玉河岸は銀座への、物資や製品の搬出基地として活用された。

 当初の三十間堀には、北から白魚橋、紀伊国橋、木挽橋の三橋であったが、明治十七年時点では、北側の真福寺橋(牛草橋)は、合流地点が江戸防備のため鍵の手であったのが、明治三十九年、船便優先を目的として、京橋川へ直進化された為、(京橋川とTの字)廃橋となっており、「水谷、紀伊国、豊玉、朝日、三原(晴海通り)、木挽、賑、出雲橋、八通八橋」が架かっていた。開削当時の川巾三十間、これからこの掘割の名称となったとされるが、現在のm法の換算すると約五十四m、隅田川河口付近の永代橋の長さが おおよそ百十間であるから、かなりの河巾をもった掘割であった。

 享保年間(一七一六~三五) 別説では文政十一年(一八二八)、川浚いが行なわれ、その揚げ土で両岸を埋め立て、両岸を東・西豊玉河岸とした。堤を築いたため巾は十九間に狭められ、東側は木挽町一から七丁目、この町は楓川沿岸の本材木町に運ばれてきた原木を、必要な寸法に製材した職人町であった為、この名称がついた。西側には三十間堀町一から八丁目が起立された。

 因みに、旧東海道(中央通りの道幅は十五間、これは明治五年の銀座の大火により、煉瓦街の建設の際に決められたが、それまでは銀座に限らず江戸の街の公道は、八~十間までの道幅で一定していなかった。また、道路の公有地(幕府所有地)と私有地の間、「庇地(ひさしち=軒下、アーケード)の奥行きも、三尺から一間と一定していなかった。

 この銀座の狭い道幅に対し、城辺河岸の奥行きは二十五間、これに庇地を加えると三十間を超える処もあった。三十間堀の川幅縮小は、いいかえると河岸地の拡大は、銀座を巡る水辺が如何に江戸経済の物流の発展のために、その揚陸地と保管場所を、いかに必要としていたかを、裏付けるものであった。

「京橋川」

 「いろはかるた」四十六文字の最後の字は「ん」ではなく「京」と書く。江戸製は「京の夢 大坂の夢」、京都製は「京に田舎あり」、大坂製には「京」の字はない。 

慶長八年から十一年(一六〇三~〇六)一次天下普請により、外濠川と共に開削された掘割とされるが、府志科には「外濠の比丘尼橋より白魚橋をすぎ、八町掘に連なる。延べ五町二十四間、幅十から十四間、開削年代は詳ならず、或いは寛永年間(一六二四~四三)に八町掘を開きしと同時にや」とあるが、八丁掘は慶長十七年(一六一二)に、既に開削されており、三十間堀との連携ためにも、慶長説が自然的である。

外濠川から北紺屋町(八重洲二丁目)と南紺屋町(銀座一丁目)の間を東に流れ、楓川、三十間堀、八丁掘と結んでいた約六百mの掘割であり。宝暦七年(一七五七)には、西から「比丘尼橋、紺屋橋、京橋、炭谷橋、白魚橋」の五橋が架っていた。

「京橋」は御入用橋(官費による普請橋)およそ百二十程あったとされるが、そのうち擬宝珠が載せられていたのは、日本橋、新橋(芝口橋は一時期)、とこの京橋である。京橋、日本橋より八町南、橋長十ニ間、擬宝珠在り」と武江図鑑は記している。名称の由来は、京から下って来た者が、この辺りで遊女屋をやっていたとか、京への一番目の橋であるからともいわれるが、いずれ説も定かではない。

比丘尼橋と京橋の間の左岸には「大根河岸」が、京橋を越えたその先には「竹河岸」が、向こう岸には「白魚河岸」があった。数寄屋河岸にあった青果市場が焼失、寛文四年(一六六四)北詰西側に移転、神田に次ぐ三十七軒の問屋が店を開き、滝野川の牛蒡、駒込の茄子、千住の葱、谷中の生姜、不忍池の蓮、小松川の小松菜など多くの青果が卸されたが、十一月になると、十本にまとめられた大根が出荷され、数量も多かった為、京橋大根(江戸っ子はでぇこんと呼んだ)河岸と呼ばれる様になった。

東海道の要所にあり、且つ水運の便がいい京橋川の北岸紺屋町へは、葛飾の農家から舟に積まれ、中川~小名木川~大川~八丁堀~京橋川と運ばれてきた。また練馬の産地からは、夜中牛車に乗せられて、五時間かけ運ばれてきたという。練馬大根は主に漬物様に使われたという。震災により築地の青果市場と合併、二〇一八年豊洲に再移転している。

広重江戸百、第十九景「京橋竹がし」は、銀座方面から望んだ図となっているが、この大根河岸に続く東岸にあった。火事と喧嘩は江戸の華、復興需要に応えて竹も木材同様、引き合いが多かった。幕府公用の御竹蔵は、浅草御米蔵の対岸大川左岸におかれ、城修復のために備蓄されていた。

竹はその柔軟性から、壁の下地材や窓枠、竹垣など建築資材の他に、団扇や笊、ほうき、すだれ、つづら、行李など広く活用され、房総や常陸などから、水路を利用して筏を組んだり、舟に乗せられたりして河岸に運ばれてきた。

この対岸に、幕府に白魚を献上する佃の網役(白魚役)十二名が拝領した白魚屋敷があった。また、金六町の東にニヶ所、この他に深川佃町にも拝領地がある。佃の漁民たちの白魚献上は家康から、十八代の常孝まで続いた。

昭和二十九年、オリンピックの対応と水質悪化の為、楓川、築地川と共に埋立ての免許がおり、同三十四年に消滅、上部は東京高速道路(株)の、東京初の自動車専用道路が被いかぶさっている。江戸の遺産、京橋川から外濠川を被い、八丁目で汐留川を被い、つまり銀座が水の街であった掘割を、高速道路でコの字に被い水の街から、車優先のうっとうしい騒音と排ガスの街とへと移行させられた。ここにも江戸の遺産の喰い潰しがみられる。

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