4 浜町川/箱崎川・稲荷堀/東・西堀留川/竜閑川

「浜町川」

 元禄江戸図によれば、「浜町川」は、中州三叉の上手から北方へ流れ、小伝馬町で神田堀(竜閑川)と合流していた掘割である。この様に浜町川はもともと隅田川に直接つながっていたが、明治十九年の中州の完成により、隅田川への合流が間接的になったため、これを直進させるべく、埋め残されて出来たのが、箱崎川の支川である。箱崎川との合流地点は現在の有馬小学校前の高速道路中間にあったとされる川口橋付近である。

長さ十町五十五間、幅十ニ間、元和年間(一六一五~二三)に開削された浜町川は、元禄四年(一六九一)竜閑川と合流していた。安政四年(一八五七)埋め立てられた竜閑川は、明治になって再び堀削された。明治十六年浜町川と竜閑川が合流、その合流地点からさらに北上、神田川へ流れ込んでいた。

昭和二十四年頃から戦災の瓦礫処理のため上流から暫時埋立てられ、昭和四十七年以降、小川橋以南も埋め立てられ、完全に姿を消していった。現在の新大橋通(市場通)に架かっていたのが「組合橋(中ノ橋)」、この東側に伊予松山藩の下屋敷があり、明治以降「常盤会久松」となった。ここは旧藩士の学資援助組織であり、初代十人の中に正岡子規がいた。日露戦争で活躍した秋山真之とは藩校の同級生であった。東大中退後、「ホトトギス」を創刊、俳句の世界に貢献したが、日露戦争に従軍、肺結核で三十四歳で亡くなっている。

甘酒横丁に架かっているのが「蠣浜橋」である。この通り、人形町通りからここまでが「甘酒横丁」ここから清洲橋通りまでが「明治座通」とややっこしい区分けとなっている。この橋の袂で見栄をきっているのは歌舞伎十八番「勧進帖」の弁慶である。この辺りでは埋立てられるまで、海苔船が舫い、川岸では海苔がお天道とにらめっこしていた。

少し上がると入堀に架かる「入江橋」、ここから牡蠣銀座を結んでいた入堀が「へっつい河岸」、銀座への銀塊や燃料輸送に使用された。へっついとはかまどの事、かまどを造る職人が集住、元吉原の堀割の役目もしていたこの河岸は、南に面し恰好の製品の干し場となっていた。この入り江橋辺から下流の川口橋までの両岸を「浜町河岸」と呼ぶ。因みに「大川端」は両国橋から、河口辺りまでの隅田川(大川)右岸を指す言葉である。

「久松橋(明治橋)」は、明治座になる前の久松座が、この浜町川畔にあった為で、橋の名もそれに合わせて変化している。左側の地域は、元和三年(一六一七)起立された、二丁四方の「元吉原」、明暦の大火後に、浅草田圃に移転するまで、芝居町とともに、人形町に籍を置いていた。この先魚河岸を通って日本橋北詰に続いている、現在の金座通りを越すと「小川橋」、この辺りで浜町川緑道は姿を消す。

江戸期、人形の町を俗称していたこの町は、新和泉町、住吉町、蛎殻町、松島町、秦大坂町、芳町、堺町などを合併して昭和二十ニ年、日本橋を冠した「人形町」を正式名とした。

昔ながらの連棟式の建物が見られる道路際には、浜町川の護岸の石と思われる岩石が散在している。先は「高砂橋」左の町は富沢町。この町名は元盗賊、鳶沢甚内からきた。家康はこの男に古着商いをさせながら、盗賊の探索に当らせた。蛇の道は蛇、毒も使いようである。ここは比較的高級な古着を扱い、日常品はもっぱら柳原土手であった。

御幸通りに架かるのが「問屋橋」、進むと浅草御坊といわれた「築地本願寺」が明暦の大火まであった旧橘町一、二に架かっていた「千鳥橋」がある。左側は現在結婚式場になっているが、旧古河グールプの銀行があった。この企業グループは足尾銅山を基軸として発展してきた。

江戸の海(大川)の汐が、ここまで上がって来たといわれる橋が「汐見橋」、本町通りに架かっていたのが「緑橋」常盤橋御門から本町一から四丁目を抜け、大伝馬町、通旅籠町、通油町を抜けると浜町川の緑橋である。本町通りは通塩町から横山町に入り、神田川手前の「浅草御門」に向かう。

「鞍掛橋」は大伝馬町と馬喰町の境にある。ここは、江戸期東のターミナル(中継地)大伝馬町の荷物と、通旅籠町の人間との駅であった。さあいよいよ終点、現在は中央区小伝馬町と千代田区岩本町の区境で公園がある。江戸の頃より竹薮が多く、江戸七森のひとつ竹森神社があった。因みに江戸三森とは、椙森(堀留)柳森(柳原土手)と烏森(新橋)である。ここより、西へは「神田堀」が伸びていた。

「箱崎川/稲荷堀」

 「箱崎川」は、隅田川から中州と箱崎町の間を通って、河口先端より男橋、菖蒲橋、女橋、この先の川口橋で「浜町川」と合流していた。ここから永久橋、箱崎橋(崩橋)、行徳河岸の先で、日本橋川、亀島川(霊巌橋)と合流、水の十字流を形成していた一、〇六㌔mの掘割である。ここも水の十字流をなしていた。また、浜町川合留地点から現在の箱崎ポンプ場までの支川は約百二十m、ここも中州と箱崎の町の間の境を流れていた。

 つまり、隅田川、箱崎川、支川に囲まれていた地域が中州であり、本川は昭和四十六年埋立、支川は翌年埋め立てられ、この時点で箱崎と中州が牡蠣町、浜町と陸続きとなった。

箱崎地域は、天正年間(一五七三~九一)に南部を、寛永年間(一六二四~四三)以降に北部を埋め立て、更に享保年間(一七一六~三五)や宝暦年間(一七五一~六三)にも、埋立て区域を拡大、町名は筑紫(福岡県)箱崎からきている。

寛永九年(一六三二)幕府より、公許されたのが行徳船の航行である。江戸小網町三丁目の「行徳河岸」から下総の南葛西郡行徳村の「本行徳河岸」まで三里八丁、明け六っから暮六つまで、船頭一人、客二十四人乗りの茶船(長渡船、番船)を五十三艘有して、行徳の塩や旅客、野菜や魚介類などの小荷物を輸送、成田山の参詣客や房総への旅客にも利用され、明治十二年に廃止されるまで、二百四十余年間続いた。

また、行徳からの人や物資の輸送には、水運の他に街道も利用され、江戸期の脇街道(行徳街道)が、浅草と行徳を結んでいた。箱崎川は昭和四十六年に埋立て完了、翌四十七年、シティエアターミナル完成。一気に高速道路が入り組んだ町となった。

「行徳河岸」の手前から、小網町と牡蠣町の境を流れ、後に「牡蠣銀座」が移転してきた、酒井雅楽頭の屋敷と土井甲斐守の屋敷の間を抜け、東堀留川(堀江町入堀)まで通じていたのが「稲荷(とうかん)堀」である。この名称は安藤対馬守の屋敷内に稲荷神社が祀られていた事による。安永八年(一七七九)開削、長さは約五町、川幅八間、狭い所では三間程であった。

稲荷を素直に音読みすれば「とうか」であるが、江戸っ子は口を開けたままの語句を苦手とする。従っていつの間に「ん」が語尾につき、「とうかん」となった。素直に「とうか」と表現した小学校が地元日本橋にあった。現在の「日本橋小学校」の前身名は、「東華(とうか)小学校」、東の華の学校、地域密着とイメージと併せた、いい学校名であった。明治終り頃、稲荷堀は埋立てにとり姿を消したが、日本橋小学校は地域のコミニティや、防災非難基地となっている。

「東・西堀留川」

 「堀留」という地名は、旧石神井川の流路を付け替え、河口近くの埋め残した部分を、そのまま水路として利用した事による。従って本来の地面に縄張りして、埋め残した「掘割」とは、根本的に発想が逆になっている。堀留は本来自然のもので、いわゆる掘割と呼ばれているものは、人工のものである。

 石神井川は現在、王子の親水公園を直進、JR京浜東北線を潜って、隅田川に注いでいるが、江戸期は王子で右に直角に右折、不忍池、御玉ヶ池をぬって江戸前島の左の根元、小網町辺りで、江戸湾に注いでいた。

 「東堀留川(堀江町入り堀、)」は、西岸は堀江町(小舟町)、東岸は新材木町(堀留町)の間を流れ、上流から萬橋、親父橋、思案橋と流れ、日本橋川に注いていた。親父橋の東側が堀江町一から四丁目、即ち芝居町の裏側を流れていたのが東堀留川(堀江町堀)、すぐそこに中村座や市村座の櫓が建っていた。 更に通りを越した東側には、明暦の大火まで、おはぐろどぶで囲まれた元吉原が、昼営業をしていた。昭和二十三~四年、戦後の瓦礫処理のために埋立て、消滅している。

 「西堀留川(伊勢町堀)」は、日本橋川から北へ室町方向にL字型に進んでいた。この川の堀留は現在の福徳稲荷辺りで、その先は通町筋にぶつかる、「浮世小路」が続いていた。堀の西側は廻米の陸揚げ地である「米河岸」、堀割が大きく左へ曲がる外側、道浄橋辺りには「塩河岸」があった。

西堀留川と日本橋川が囲む一帯には、日本橋魚市場を控え、水路を利用した一大物流センターであった。昭和通りの西側、塩河岸より上流は明治十年埋立て、そこから先、日本橋川までは昭和三年、震災後の復興事業によって埋め立てられている。

「竜閑川」

 神田堀、神田八丁堀、銀(しろがね)堀、竜閑堀とも呼ばれた「竜閑川」は、万治元年(一六五八)若しくは元禄四年(一六九一)に開削された。(二説有)、堀名の由来は、河口付近に殿中接待役、井上竜閑の屋敷があった為である。鎌倉河岸東端の外濠から北東に進み、西今川町(内神田二丁目)と、本銀町(本石町四丁目)の間から、亀井町玉出橋(小伝馬町)で、浜町川と合流していた掘割である。

 明暦大火後、白銀町より町屋が取り除かれ、高さ二丈四尺(約八m)、東西十町(一町≒百九m)の防火用の土手築かれたが、安政四年(一八五七)に埋め立て、明治十六年に浜町川が、神田川まで延長された際に、防火用、排水路として再び開削され、この時点から竜閑川と呼ぶようになった。

更に昭和二十五年、戦後の瓦礫処理のため、埋立てが完了している。現在はこの川筋跡が千代田区と中央区の区境をなしているが、江戸期はこの堀割によって、神田の職人町と日本橋の商人町は、興隆を極めたという。

 この堀割の上を、通り町筋(現中央通り)に架けられたのが今川橋である。天和年間(一六八一~八三)日本橋から中山道を進み、本銀町から元乗物町に架かる橋で、名称は当時の名主の名をとり、長さ六間、幅十ニ間と幅広の橋であった。ここは「熈代勝覧絵巻」や「江戸名所図会」などにも描かれているが、江戸期、この橋の両側の袂には、船便を利用した瀬戸物や陶器の問屋が立ち並び、北詰西岸は「主水河岸」、江戸初期「小石川上水を開いた大久保主水が、ここで御菓子司を開いていた。この通りの少し神田よりには、松坂屋も店を開いており、今川広小路と呼ばれた商業地であった。

「番外、神田川、玉川上水」は、第5章 江戸上水記参照

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