3 旅行ブームと関所

江戸も中期になると、幕藩体制の安定化による、規制緩和や街道の治安の安定化、参勤交代(四十二国、百四十六家)や、商人の往来による街道の整備、国民所得の向上により、また紀行文、旅物語、浮世絵などにより、人間本来の好奇心に目覚めた一般庶民は、信仰に名を借りて、講という団体に身をおき、また親孝行、勉学と称して、仲間同士、主従、忍び旅と形を変えて、江戸から地方へ、地方から江戸へと往来が煩雑となっていった。

街道歩きは勿論徒歩が原則、朝早く宿を発って時間と距離を稼ぐ。これは現代でも通用する基本原則である。東海道百二十六里は、事故がなければ通常十四から十五日の行程となる。従って男女とも、八里から九里の歩行となった。

さて、問題の経費は、文化、文政期(一八〇四~三〇)の物価と比較してみると、旅籠代二食付、一泊百から二百文(酒代別)、昼飯、茶代、間食代併せて五十から百文、酒代三十文、江戸なら上等酒一合が二十文したため地方は半値として十文、毎晩三合飲んでいた計算となる。草鞋は一足が十から十六文、馬や駕籠を利用した場合、一里約百文(二千~二千五百円)だから、現在のタクシーと同じ位となる。

いくらかゆとりのある旅行で、一日四百文(約一万円)かかるとして、旅が順調に進み東海道片道を十五日かけて進み、十五両の支出となった。これは大工の一月分の手間賃とほぼ同じで、現在の一週間割安海外旅行に匹敵する。因みに文政十三年(一八三〇)、当時の日本人約三千万人、その約六分の一弱の四百八十六万人を数えたお伊勢参りは、柄杓一本と筵一枚で。最低限の旅ができた。

小判など大金は腹巻へ、一文銭は紐を通して首から下げ、上着は旅を通してそのままの着たきり雀、着換えや雑貨は振り分け荷物(男六㌔、女五㌔)にして、肩から下げて歩いた。洗濯物などは、天気が悪い日が続いたりすると、麻縄を二人で拡げて歩き、簡単即席物干し台とした。

女同士の旅は、その頃はまだリスクが高かったため、なるべく回避されたが、どうしてもの場合は供をつけ、本人は髪を短くつめ、上着は地味な男物にし、顔を頬かぶりにして隠し、おまけに顔はスッピンのまま紅もささず、頬には炭を塗ったり、ばんそこうを貼ったりなどして、顔を醜く見せるように演出、護身用に杖を持ち旅を急いだ。江戸の女旅は危険と裏腹であったが、現代では海外など行くと、一人でスーツケースをみっつほど持ち込み、毎日ショータイムのマダムに出くわす事も多い。

「関所」は、交通の要所に配置された、検問や徴収のための施設であり、この歴史は古く、古代中国春秋戦国時代には「函谷関」が設けられ、欧州においては神聖ローマ帝国でも良く見られた。我が国においては、大化二年(六四六)大化改新の詔において、鈴鹿、不破、逢坂などが「関塞(せきそこ)」と定められ、陸路においては「道路関」、水路においては「海路関(船番所)」と呼ばれた。

関所の目的は、古代においては軍事的目的、蝦夷からの防衛を第一に、「勿来の関」「念珠の関」「白河の関」などが設けられた。中世になると、豪族や寺社が、財政を潤すための通行税などの徴収を目的としたが、信長、秀吉の時代になり、これらの関所を撤廃している。これにより人や物流の流れが良くなり、経済の発展を促したが、反面地方の豪族、寺社は通行税の減少により、財政の悪化をもたらし衰退化していった。

江戸時代になって軍事、政治目的のため、東海道は箱根と新居に、日光、奥州道中では房川渡中田(栗橋)や白河、中山道では碓氷峠と木曽福島、甲州道中では小仏峠などに設けられた。「入り鉄砲と出女」は、幕藩体制の存続のため、幕府の政策を維持し、破綻の防止を図ったもので、この政策を取り締まりの第一とした。

通常、旅に出る場合は「往来手形(道中手形)」を持参、改めが厳しい関所では、檀那寺や町名主などが発行する「関所手形」が必要とされた。また、江戸から地方へ出向く「出女(特に大名の妻子)」は、「女通行手形」が必要とされ、江戸では大奥の管理を担当した、幕府御留守居役が女性の素状や、旅の目的と行く先などを記載した、「御留守居証文」を発行した。甲州路は甲府番支配が、摂津、河内方面では大坂町奉行が、山城、西国筋では京都所司代が担当したが、この制度、明治二年廃止されている。

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